第29話 タルタルに仕える

 クリミア総督ヤイラクが、妻バヤルンのいる天幕にやってきた。バヤルンはマルクスというフランク人が誠実そうだと褒めた。タルタルでは西欧人のことをフランク人と呼ぶ。ヤイラクは早速マルクスを呼び出すと、マルクスがジェノヴァの使者の一人だったことに気付き、その上で、次のように命じた。

「私のビチクチとする」

ビチクチとは書記のことであるが、広く文官一般をさすタルタル語である。トクト大王のビチクチの長ともなれば、宰相とも呼ばれる。ただし、タルタルでは外交官以外の文官はまったく高位者だとはみなされない。

 帝国の人材登用制度は整然としたものである。有力者の子や能力があるとみなされた少年たちを君主の下に集め育てる。この集団をケシクテンといい、漢字では質子軍と書く。少年たちは、牧畜・料理・鷹や猟犬の飼育・黒馬乳酒の醸造などの仕事を割り当てられ、君主から能力があると思われたら、年が若かったとしても、すぐに地方軍の司令官や総督などに任じられる。タルタルに年功序列はない。彼らはすべて武官である。

 これに対して文官はかなり適当に選ばれる。王侯に近侍する侍医や料理長が書記長になることが多い。その他文官は縁故や世襲で採用される。

 マルクスは、仰せに従います、と答えた。仰せとはタルタル語ではウゲと言い、事実上の法律である。

 タルタルや西欧に、「二君に見えず」という儒教的観念はない。ジェノヴァ共和国の公務員であり、かつトクト大王の義兄弟であるヤイラクの書記になることに対し、マルクスに抵抗感はなかった。

 ヤイラクの家臣団に加わったことで、マルクスの情報収集は格段にやりやすくなったと言える。これまで断片的だった、諸王ノガイの経歴について分かってきた。

調査を進めていく中で、なぜノガイの動きが鈍いのか、マルクスは疑問に思うようになった。どうしてノガイは積極的にドン河方面の親トクト勢力を攻めず、自領でトクトを迎え撃とうとしているのか。まるでトクト勢力の結集を待っているかのように見える。なぜ各個撃破を選ばないのか。

 トクト軍の見かけ上の主力は国軍3万騎であるが、国軍の司令はトクトの末弟トグリルチャの子である。トグリルチャはすでに亡くなっており、まだ10代の子が受け継いだ。後にトクトの甥はスルタン=ギヤースッディーン=ウズベク=ハンと名乗ることになる。

 国軍の実際の司令官はシジウト部族長とフウシン部族長である。両部族とゲニゲス部族は、1207年にジョチがチンギス・カンより直接与えられた集団であり、国軍の構成部族である。

 ただし、国軍の実戦経験は乏しい。

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