第28話 マルコからマルクスへ
マルコには一応、自分がジェノヴァ共和国の市民であり、任期付きとはいえ、在外公館で働いている公務員だという自覚はあった。しかしながら、聖ジョルジョ銀行に振り込まれる給与は、勤務に対する正当な対価であり、愛国心のようなものは感じなかった。
また、マルコの報告書をベネデットなら活用してくれると思うが、共和国政府が有効な政策を練るための材料にしてくれるとは、到底考えられない。
公務員になったのも、家族に送金したいがためだったが、実際には、送金がなくてもやっていけるのであって、両親も弟妹もマルコに感謝などしていないことは明らかだ。そんな客観的事実をぼんやりと眺めた自分に対し、家族への愛が薄いなと、マルコは自らをさげすんだ。
これに対して、牧民の帝国や血族への帰属意識は強烈だ。曽祖父はサイン・カンにしたがって西方へやってきたとか、自分はキプチャク部族の何とか氏族で、祖父がサイン・カンにより百人長と認められたなどと、皆いうのである。属する部族・氏族とタルタルとの関係について記憶し、帝国の一員であることを誇りとしていた。
言語・人種・宗教・生業などが違っていても、自分がタルタルだと思えば、タルタルになれる。辮髪にし、周りからマルクスと呼ばれるようになったマルコは、もうすぐ父親になる。子の母親であるアンナはユダヤ教徒だがキプチャク人であり、子はタルタルの一つとしてのキプチャク人として育てたいと思っている。
どうしてタルタルになりたいと思ったのか、自分でもよくわからない。タルタルに紛れ込むために仕方なく辮髪にしたというのは若干無理がある。
アンナは自身の腹をさすりながら、マルクスに言った。
「あなたの価値を認める人は、これまでも数多くいた。でも、あなたの集めた情報を共和国は、そしてジェノヴァ人は、活かすことはできない。だからタルタルになりたかった」
マルクスは尋ねた。
「タルタルは私を活かすことができるだろうか」
アンナは微笑みながら、たぶん大丈夫と答えた。
次の日、クリムにやってきた馬商人アンドレアは、マルクスを見て驚き、少し自分の話をしだした。
「故郷のピサに、独立勢力としてやっていく力は、もはやありません。また、私自身、ピサ本国とは無関係に商売をしています。ガラタにいる妻と3人の子も、ギリシャ語の方が上手くなりました。でもね、やっぱり、ピサに帰ってみたいと、思いがこみ上げてくることもあるのですよ」
マルクスがジェノヴァを棄てようとしていることに対し、もはや故郷を失ったも同然のアンドレアは複雑な感情を抱いているようだった。
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