第26話 辮髪

 ジークフリート率いるジェノヴァ傭兵団は、一足先にクリム万人長ギレイの軍と合流するため、クリムからジャンコイに向け出発した。

 これに対して、マルコとアンナは、総督ヤイラクの妻が中核となっている、ヤイラクのアウルクとともに行動するため、ひとまずクリムに留まった。

 マルコとアンナは、ヤイラクの妻バヤルンと面会した。バヤルンには100人ほどの侍女や付人らが従っており、自身の家畜の群れを連れていた。バヤルンは2人に優しく声をかけた。

「マルクス、頼りにしていますよ。アンナ、丈夫な子を産むのですよ」

バヤルンはネストリウス派キリスト教徒であり、タルタル人はイタリア語のマルコを、モンゴル語なまりでマルクスと発音した。

 ネストリウスは、キリストは神性をもつが、その母マリアは人であると主張した。土着の聖女信仰をもつ極西の野蛮人は、聖母マリアが侮辱されたとして、ネストリウスを破門した。これ以降、ネストリウスの教えは東方で積極的に布教され、唐では景教と呼ばれ、またモンゴル高原の遊牧民に根を下ろしていた。それゆえ、モンゴル遊牧民の中には洗礼名を持つ者がいて、例えば、クルチャクス、ゲオルギウス、そしてマルクスといった名は珍しくなかった。

 アンナはコマン(キプチャク)人なので、元のコマン人の服装に戻るだけだった。牧民は女性でも馬に乗るので、スリットの入った、いわゆる「チャイナ・ドレス」を着るのである。マルコは、名をマルクスにしただけでなく、服装も髪型もタルタル風に変えた。ただし、モンゴル人のような三つ編みを2つたらすのではなく、コマン人の如く1つだけたらして後はそり上げる、いわゆる辮髪にしたのである。最初、マルクスが辮髪になったのを見て、アンナは必死に笑いをこらえていたが、数日もすると、もうずいぶん前からそうだったように思えてきた。

 マルクスは不思議な人で、ガラタではギリシャ人と間違えられ、カッファではゴート人だと他人から見られていた。アンナは、いたって真面目に説明した。

「あなたは、どこに行っても挙動不審さがないから、地元民と思われるのよ。今ではすっかりキプチャク人ね」

マルクスは笑って応えた。

「ただラテン人に見られたことがないんだよ。同じジェノヴァ人から、ヤフシーって言われたことがある」

「ヤフシー」はコマン語(キプチャク語)で「こんにちは」を意味する。

 軍需だけでなく生活物資を売るため、多数の官許商人がアウルクに同行したり、出入りしたりする。情報収集のため、マルクスは商人たちとの接触を図っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る