第20話 ハザル

 ジェノヴァやヴェネツィアでは、クリミア半島のことをガザリアと呼んでいた。ガザリアとは「ハザルの地」という意味である。

 ハザルは、トルコ語を話す遊牧民で、かつてはヴォルガ河中下流域を中心に広域を支配していた。ハザルは南のコーカサス山脈を越えて攻め込んできたイスラーム帝国への対応に苦慮していた。また、北にいたバイキングからも攻撃を受けていた。バイキングはもともとスカンディナヴィア出自であるが、徐々に東ローマ帝国の影響を受けてキリスト教を受容していった。

 そこでハザル王は、世界史的に見て、きわめてまれな決断をした。イスラームでもなくキリスト教でもなく、ユダヤ教に改宗することで、ハザル王国の独自性を保とうとしたのである。

 その後、ハザル王国は滅び、部民の多くがペチェネグ、キプチャク、ブルガルなど他のトルコ系遊牧勢力に吸収されたが、ハザルの王族の一部がクリミア半島に逃げ込んだのだった。

 キプチャク、ヨーロッパ人のいうコマン人は、豚肉が大好きで、特に豚の脂身の塩漬けをこよなく愛している。これに対して、クリミアのユダヤ教徒の牧民は、キプチャク人と恰好も言語もほぼ同じなのにもかかわらず、豚を食べない。また、ギリシャ人が好んで食べる、イカ・タコ・貝などの海棲軟体動物も禁忌である。とはいえ、彼らユダヤ教徒も自分たちをコマン人の一種だと思っていた。一方、コマン人の多くは正教徒である。

 モンゴル人は、征服した人々の宗教について、とやかく言うことはほとんどなかった。例外はイランのイスラームの一派であるニザル派で、彼らはヨーロッパでは暗殺教団として知られていた。ニザル派はモンゴル皇帝の暗殺を企んだとして、攻め滅ぼされたのだった。

 クリミア半島は、多種多様な民族・言語・宗教が見られる世界の縮図だった。

 マルコは、初めて会った次の週には、アンナと暮らすようになった。

 マルコはアンドレアに、アンナの代金を払いたいと言ったが、アンドレアは拒絶した。その代り、今後も情報交換しましょうと、商人らしい打算があることをほのめかした。アンドレアは少し話しただけで、マルコの情報収集・分析能力が非凡なものであり、語学を習得すれば、ますます自分にとっても役に立つだろうと踏んだのである。

 アンナは、料理は作るがユダヤ教徒なので豚肉を口にするのは避けたいと言っているようだった。マルコは問題ないと身振り手振りで答えた。マルコは、彼女が奴隷身分だとしても、絶対的服従を求めようとは思わなかったし、おそらく彼女が服従する対象は、唯一神だけだろう。

 マルコは、アンナに神の名を聞くと、テングリと答えた。

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