第9話 スルタン=バイバルス

 コマン人というのはギリシャ語で、トルコ語ではキプチャク人という。黒海北岸に注ぐ河の一つにクバン河というのがあって、キプチャク人の一部がこの河流域に住んでいたので、欧州ではクマン、コマン、クンなどと呼ばれていた。とはいえ実際は、現在のカザフスタンからドナウ河口に広がる大草原に広がって住んでいた。

 コマン人はモンゴルから1218年に最初の攻撃を受け、1242年までにあらかた征服された。最初に攻めてきた人物がチンギス・カンの長男ジョチで、征服を完了させたのがジョチの子バトだった。

 バトは自らの遊牧圏をヴォルガ河中下流域に設定し、サライを首都とした。コマン人のほとんどはバトの部民となったが、一部の者が東方へ送られ、また、奴隷として中東に売られた。ただ、奴隷とはいえ、男子のほとんどは騎兵として採用され、彼らの中には立身出世して、例えばエジプトのスルタンになる者もいた。

 有名なエジプトのスルタン=バイバルスは、バトの部下のアナスに捕えられ、アナトリアのシヴァスの奴隷市場で売られた。とはいえ、アナス将軍も奴隷商人も、バイバルス少年がなるべくいい人に買われるように、八方手を尽くしたのである。その後、多くの苦難を経てスルタンになったが、彼はモンゴル人を妻とし、モンゴル人が好む馬乳酒を毎日飲んでいた。コマン人は馬乳酒造りも得意だった。

 1261年、モンゴル軍の一団がバイバルスの下に逃げ込んできた。モンゴルの中東方面軍総司令官フレグと、ジョチ朝当主ベルケは、アゼルバイジャンをめぐって軍事衝突を始めた。フレグ軍に与力として派遣されていたジョチ家の部隊に対し、ベルケはバイバルスを頼るよう指示を出したのだった。

 バイバルスは、ジョチ家の軍を大歓迎し、ジェノヴァの船を使ってクリミアまで送り届けた。そして、両国の友好を記念して、硬貨にバイバルスとベルケの名を刻んだのだった。硬貨に名を刻むことは、その人がその地の支配者であることを意味する。バイバルスは、ベルケを主君のように扱った。そして、自らの立身出世の証に、クリミアにモスクを建てた。

 バイバルスとその軍団は、奴隷としてエジプトにやってきてからイスラームに改宗したはずだったが、チンギス・カンの憲法に則った生活を変えなかった。コマン人にとって、モンゴルは敵ではなく、愛すべき故郷だった。コマン人は、モンゴル人以上にモンゴル人になったのだ。

 1277年、バイバルスは古くなった馬乳酒にあたって亡くなった。

 1291年、彼の後継者となった、やはりコマン人のスルタンにより、十字軍最後の拠点アッコンは落とされた。ジェノヴァはコマン人奴隷を売って儲けていたが、そのコマン人の元奴隷に、西欧人たちは、中東最後の拠点を奪われたのである。

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