第12話

「お母さんからの伝言です」と、その老紳士は言った。

「母から?」智子はそれが何を意味しているのか、汲み取れずにいた。

「はい、遺言と言ってもいいでしょう」

「遺言?それで、どんなことでしょうか」

「はい。急いで家を出なさい。自分の道を歩きなさい。見守っているから」と、老紳士は封筒から出された手紙を読んだ。

「そのつもりでアルバイトをしています」智子は素直に答えた。

「そしてこれを」と違う封筒を手渡された。そこには、大きな金額が書かれていたが、智子には理解できずいた。

「あなたのお母さんは、あなたが受取人として、お父さんには内緒で多額の保険金をかけていました。もしもなにかあったら、娘が十八になったときに渡してください、と頼まれていたのです」それを聞いた瞬間、智子の目から涙が溢れ出てきた。母は遅かれ早かれ、こういうときが来ると分かっていただろう。だから父親には内緒で準備していたのだ。

「何故、十八なのか。これから説明しますね」智子の涙が乾くのを待って、その老紳士は続けた。

「父親と縁を切ることが法律的に可能なのが、十八なのです。私はあなたのお母さんから色々と聞いていました。それを踏まえて智子さんにお聞きしますね。父親と縁を切りますか?」

「はい、お願いします」智子は急いで答えた。すぐに答えたのは、今の話が消え去るのではと、恐れるあまりの行動だった。

「わかりました。すぐに準備しますので、こちらに任せてもらいます。よろしいですか?」

「はい」智子は喜びながら返事を返した。智子にとって父親は増悪の対象でしかない。継母にもできたばかりの弟にも愛情すらなかった。しかも、六千万と言う大きな金額があれば、家をすぐに出られる。それが智子には嬉しかった。智子は直ぐに行動に出た。母が内緒にしていた保険金のことを、父に知られるわけにはいかない。知られれば横取りさえしかねないと思えた。智子は皆が留守の間に黙って家を出た。そして、そのあとのことは弁護士に任せることにした。智子は電車を使って高校に通える程度の距離にアパートを借りた。進学しなくとも、同級生たちと共に卒業だけはしたかったからだ。一週間程度で弁護士から連絡がきたが、父親はあっさりと認めたらしい。父親にも、予想通り智子に対する愛はなかったのだ。恐らく、厄介者が消えて清々しているはずだ、と智子は考えていた。『私だってお父さんなんか大っ嫌い』智子は心の中で叫んでいた。それがせめてもの抵抗なのは智子にもわかっていた。それから智子はバイトを減らし、就職先を探しながら学校に通った。家を出ることを優先していたため、就職活動は後手に回った。それでも内申書の良かった智子には、すぐに内定が届いた。都内にある小さな出版社だ。勿論、出版についての知識は持ってはいない。ただ、物語の好きだった智子は、少なからず『書物』というものに興味を持ってはいたのだ。幼い頃には何度も同じ絵本を読み返し、中学の頃には図書館にも良く通っていた。それから智子は卒業までの暇な時間に、あらゆる情報を求めた。単なる事務職だが、色々と知っていたほうが有利に思えたからだ。

愛のない家を出て一人の暮らしが始まったが、智子は寂しささえも感じなかった。かえって自分らしさを取り戻せたようで、日々生活を謳歌していた。そんな中で暇つぶしに始めたブログが面白くなってきたため、智子はバイトをやめた。就職すれば給料も出る。無理に働く必要もなくなったところで、小さな趣味を見つけたのだ。そしてあの店長に会わずに済むことにも安堵していた。智子の作るブログの内容は料理に関してである。母親譲りの料理上手はすぐに多くの読者を獲得していた。毎日作る晩御飯がブログの題材である。そんな充実した日々を送る中、智子の卒業の日が訪れた。思っていたように、父親も継母も式には列席しなかった。縁を切ったのだから、当然と言えば当然であろうが、やはり心のどこかに寂しさは残った。けれども智子は明るく振る舞い、進学する同級生などに別れの挨拶を送った。一週間ほどの休みを終えてから、智子の社会人としての生活が始まった。保険金はアパートを借りるときに使ったくらいで、ほとんどが手つかずの状態で残っている。それでも、智子は仕事に手は抜かなかった。就職前に調べたところ、面白そうに感じたからだ。そして仕事の大きなミスもなく、智子は会社に馴染んでいった。

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