第11話

 智子は小さなお墓の前で手を合わせていた。それは、広い公園墓地の一角にある墓であった。そこには母の遺骨が埋葬されている。その前で長い間、智子は眼を瞑っていた。そして今までの出来事を思い出していた。智子の思い出の中に、父親の姿はほとんどない。智子の父親は外泊が多く、たまに帰宅しても智子の頭すら撫でることがなかった。その目は冷たく見え、まるで憎まれているようにさえ幼い智子は感じていた。けれども母だけは智子を可愛がり、二人だけの生活でも幸せを感じられた。そして智子には得意の料理を教えてくれた。母の話によれば、母が若い頃に貰ったエプロンが、料理好きになったきっかけだったそうだ。その料理の数々を、母は智子に惜しみなく伝授した。智子もそれから料理好きになり、母と並んで料理を作る楽しみに幸福感を覚えていた。そんな智子の生活に欠かすことの出来ない母が、不慮の事故で亡くなったのは智子が高校に入学して直ぐのことだった。普段は運転などしない母が、何故か運転して事故を起こし、そして死んだのだ。智子にはその事実が受け入れられないほどにショックだった。父親によって葬儀こそまともに出すことが出来たが、すぐに父親の外泊が始まった。料理が得意になっていた智子には、普段の生活に問題はなかったが、母を失った悲しみと、遣り切れない孤独感に精神が崩壊寸前にまで追い込まれていた。そんな矢先、父親が知らない女性を連れて家に戻ってきた。『再婚するから』ただそれだけを言われた智子は、身の回りの物を持って家を飛び出した。母の死から一年も経っていない。しかも身重だと言う。それは長い間、その女性と付き合っていた証だ。智子にはそんな父親が許せなかった。しかし、行く当てのない智子は、すぐに家に戻った。そのことに対して、父はなにも言ってはこなかった。居ようが居まいが関係がないような態度に、智子は心を決めた。それから智子はバイトを始めた。家を出る資金作りのためだ。家にいるのも苦痛でしかなく、バイトは良い意味での逃げ場になっていた。それまでは成績優秀だった智子も、勉学よりもバイトに集中した結果、徐々に下がり始めた。『どうしたんだ?』担任はそう言うが、智子の母親が他界したことは知られている。だから、それ以上のことは言ってはこなかった。母親の死が原因だと決めつけ、父親との確執があることなど、想像すらしていないようであった。智子はそれで良いとさえ思っていた。無駄な説明をする必要がなく、ただ黙って俯いているだけで、担任から解放されたからだ。智子の目標は家を出ること。今はそれ以上のことを考えられなかった。

高校3年になり、同級生たちが受験に向けて勉強する中、智子はバイトを続けていた。

「智子ちゃんは進学しないの?」受験に向けシフトを減らす従業員が多い中、逆に増やす智子に店長が尋ねた。バイト先のファミレスの店長だ。

「私は就職組なんで」と智子は端的に答えた。

「そうか、じゃここに就職しちゃえよ」そんなことを言う店長を、智子は内心では嫌っていた。女子のバイトをなにか不純な目つきで見ているような視線に、心底、嫌悪していた。

「そうね、考えておきます」と智子は軽くかわしていた。それ以外では働きやすかった職場なので、智子はそこでのバイトを続けた。あくまでもお金を貯めるためだけの職場だ。時給が良いならば我慢するしかない。そんな時期に、智子に弟が出来た。けれども悲しいことにその弟を愛する気持ちが少しも湧いてこなかった。邪魔者とさえ思えたのだ。そんな気持ちを持ったことに対しても、智子は自己嫌悪に陥りそうだった。しかし、出来たばかりの弟だけを可愛がる父を見て、邪魔者は自分なんだと気が付いた。直ぐにでも、家を出る資金を貯めたかったが、普段の生活にも色々とお金がかかり、智子の苛立ちは極限に達しようとしていた。父親や、継母からお金を貰いたくなかったのだ。だからと言って、共に生活を送ることなど考えも付かなった。事実、洗濯さえ、自分のものはコインランドリーで洗っていたくらいだ。朝はコンビニでおにぎりとお茶。昼は購買部でサンドウィッチ、夜はバイト先の賄でしのいだ。それが智子に出来る精一杯のことだったが、それ故に貯金額はようとして増えなかった。

「お前は進学しないのか?」受験勉強がピークに差しか返る頃、智子の担任が痺れを切らしたように尋ねてきた。

「はい、就職しますので」智子は即答で対応したが、今までは成績が優秀だったこともあり、担任はその言葉を認めなかった。

「お前は頭がいいのに、勿体ないな。一応、お父さんに聞くから」と、智子の意見に反論してきた。ところが智子の父親は『あの子の好きにさせてくれ』と担任の意見をまるで聞かなったらしい。

「じゃ、ほんとに良いんだな?」

「はい、他の子の面倒を見てあげてください」智子は担任の最終通達に平然と答えた。働きながら大学に行く手もあるが、どうしても最初はお金がかかる。だからと言って、父に助けを求めることは、智子の気持ちが許さなかった。智子の中では、進学と言う道は完全に消えていた。平日は遅くまでバイトに明け暮れ、休日もできる限りシフトに入った。それでもアパート代何やらを考えれば、貯金額は全然足りなかった。そんなある日、そろそろ智子の十八回目の誕生日が近づいてきた日に、一人の男が智子の前に現れた。かなりの年配だが、紳士らしい振る舞いをしていた。

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