第9話

 特に問題もなく、その日も定時に仕事を終えた。タイムカードを押し、大きなシャッターを下ろして全ての照明を消した。暗くなって静まり返った倉庫内は、別の次元に繋がっているようにさえ感じられた。あの暗がりの先には、別の明るい世界が待っているのでは、と感じさせるほどだ。それから鉄門を閉め、私は駅に向かって歩き始めた。夕焼けが今は一番綺麗な時期。だが、その夕焼けを見ても私の心が晴れることはなかった。どうしても智子の言葉が思い起こされてしまうのだ。それでも、普段通りの生活を送るしかない。智子を追いかける権利も資格もないのだと、改めて自分に言い聞かせた。少しでも楽しい時間が過ごせただけで充分だろう。と思うように努力をするしかない。そしていつものスーパーマーケットに、いつものように立ち寄った。そしていつものように総菜のコーナーへと真っ直ぐに向かった。私が総菜をあれこれと手に取ってみていると、ふいに肩を叩かれた。この店で知り合いに会ったこともない私は、驚いて振り向いた。そして振り向いた先には、智子の笑顔がった。

「お買い物ですか?」

「え、ええ」何かまずい場面でも見られたかのように急に恥ずかしくなり、私は顔が熱くなるのを感じていた。それを悟られないようにと、私はすぐに聞き返した。

「智子さんもお買い物?」

「ええ。ホテルのシャンプーだと髪がガサガサになっちゃって」と智子は柔らかく笑って答え、買い物かごの中身を見せた。そこにはシャンプーとリンスの小さなセットが入っていた。

「ビジネスホテルだと良い物は置いてないですよね」私は納得して答えた。ビジネスホテルからこのマーケットは近いとは言い難い。けれども、彼女が何の目的でこの地に来たのか聞いていない以上、ここにいるのも不思議ではないだろう。用事というものがこの近くなのかもしれないからだ。現に出会ったのはこの商店街の喫茶店だ。

「晩御飯ですか?」智子は私が手にしている物を見て尋ねた。

「手抜きでお恥ずかしい」私はさらに顔面に熱を帯びるのを感じた。

「そうだ。晩御飯を御一緒してください」智子は思い出したように声を出した。

「え?」

「一人で食べても美味しくないので、一緒に食べましょう」

「しかし」

「今日は私の奢りでね」と、返事に困る私の言葉を遮った。そして

「これは戻して」と、私が手に持っていた総菜を智子はケースに戻した。そんな強引ともいえるような行動だが、私はなぜか嬉しくてたまらなかった。もう会えないだろう、とさえ思いながら仕事をしていたのだから当然だ。私はすべての抵抗をやめ、彼女のされるがままに任せた。それによる結果などは考えもしなかった。そして、それでいいとさえ思い始めていた。

「シャンプーだけ買ってきます。入口で待っててください」智子はそういうと、空になった私の籠も持ってレジに向かった。手ぶらになった私は、周囲の目も気にせずに大きな返事を返していた。


「どこに行きましょうか」小さな袋を手に、智子が店を出てきた。

「何が好きなんですか?」私は智子の好物を知らない。焼き鳥は好きだと言っていたが、そのほかの料理は話題にならなかったのだ。

「お寿司は?」智子は私に尋ねた。

「お店を詳しくは知らないんですよ」正直に言って、寿司屋は全くといっていいほど、行ってはいない。海が近いから恐らくは美味しいはずなのだろうが、回転すしさえ行ってないのだ。

「そうだ、焼き肉は?」智子は少し思案してから言った。私は咄嗟に焼き肉店の場所を思い出した。商店街の裏の路地に、確かあったはずだ。良い匂いがしていたのを思い浮かべた。寿司屋だと何か恰好を付けなくてはいけない気がするが、焼き肉ならば問題ないと思え、しかも、しばらく食べていないことにも気が付いた。

「そうだね。一人で焼き肉は行けないですからね」私はすぐに答えた。『一人焼き肉』も今の若い子ならば気にならないだろうが、私には無理な課題である。

「いいところありますか?」

「行ったことはないけど、美味しいと評判の店なら知ってるよ」喫茶店での会話を耳にしただけだが、地元の人の話ならば信用できるだろうと考えた。

「じゃあ、そこにしましょう」智子は笑顔で答えた。昔は家族や友人、同僚などと良く行ったものだが、越してきてからは一度も行っていない。そんな焼き肉屋だが、メニューや焼き方に大きな変化もなく、安心できるのも嬉しかった。でも、一番の喜びは目に前に座る智子の存在だろう。昨日はカウンターで横に座っていたが、今日は向かい合っている。煙に目を伏せる顔、頬張る口元、そして私を見詰める光を放った眼。その全てが愛おしく思えて仕方がなかった。そしてその顔を見れば見るほど、懐かしい記憶が蘇ってくるのだ。この時ばかりは彼女が死んだことさえ、忘れるほどだった。昨夜のこともあるので、お酒は控えめにしたのだが、結局、食べ終わってみれば、何を食べたのかさえ覚えていないほど私の気持ちは舞い上がり、別の意味で酔っていた。そして食事を終え、ビジネスホテルへ送る途中に智子が言った言葉が、私を現実世界の荒海に沈みこませた。

「色々とありがとうございました。明日帰ります」その言葉の持つ意味は、『もう会えない』と言うことだ。ひょんなことで知り合い、短い間だけど楽しい時間を過ごしたことも、終わりを告げたのだ。それは彼女との別れよりも今は辛く感じた。年を取ったせいかも知れないが、送り届けた後、私は夜の道を泣きながら帰った。智子と結ばれるとは思ってもいないが、もう会えないという事実だけが、私の心を締め付けた。もしも智子が彼女に似ていなければ、こんな思いもしなかっただろう。そして智子が最後に見せた寂しそうな表情が、何を物語っていたのかは想像に難しい。ただ、二人の間にはなにかの絆が出来たようには感じられた。私の身勝手な錯覚かも知れないが、それも、終わりを告げてしまった。そう思うと、自然と涙があふれ出てきた。

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