第7話
それからタクシーを拾い、出会った商店街の近くにある店へと向かった。ここも月に一度か二度くらいしか来ないが、お気に入りの店の一つだ。若い店主は夫婦で店を切り盛りし、たまにしか顔を出さない私にも親切に対応してくれた。余計な詮索をしないところも気に入っていた。私が店に入ると顔見知りも数人いたが、皆の表情が驚きに満ちた顔なのに気がついた。それもそのはずだ。私に同伴者が居ることなど、初めてのことだ。
「珍しいですね」店主の一声がそのすべてであり、すこしばかりからかうような笑みだった。
「自分でもそう思うよ」私は笑った。笑いながらどこか満足感に溢れる気持ちを抑えられずにいた。
「ちょっと意気投合してね、今日一日付き合ってもらったんだよ」とついつい、みんなに智子を紹介していたのだ。そのミスに気が付いたが、智子は嫌な顔一つせずに、皆に笑顔を振りまいていた。
「いえ、付き合ってもらったのは私のほうなんですよ」と智子が言った。
「ごめん、気を遣わしちゃって」
「え?大丈夫ですよ、気にしてませんから、それに煙草の吸えるお店は貴重ですし」と笑った。若い子に諭されても嫌な気持ちはすこしも感じなかった。それよりも、昔の彼女に諭されていた時を思い出し、気持ちが和んだようにさえ感じた。もしも、あの彼女と一緒になって年を重ねていたら、今でもこんな関係だったのだろうか。と思うと、遣り切れない悔しささえ浮かんできた。
「どうしたんですか。静かですね」智子の優しい言葉が私を現実に戻してくれた。私は涙が流れていることに気が付き、とっさに顔を背けた。
「なんでもないよ。さぁ、おつまみを頼もうか」私は至って元気な素振りで答えた。
「ええ。お任せします」きっと智子にも私の涙は見えただろう。けれどもそのことには何一つ触れることはなかった。私のお勧めを数品頼み、ビールの二杯目を頼んだ時に、智子は小声で私に訊ねた。
「奥さんはいないんですか?」時間的に妻帯者ならば連絡の一つも入れると思ったのだろうか。
「いえ。今は独り身です」と、その質問に私は正直に答えた。
「そうですよね。じゃないと一日付き合ってくれるわけないですもんね」智子は分かっていながら聞いたのだろう。恐らく、確かめなくてはいけないと思ったのかもしれない。或いは、一応聞くのが礼儀だと考えても可笑しくはない。その証拠に、私に質問してきたのは、これが初めてだったからだ。しかし、正直に答えたあとで私は後悔した。何故ならば、いい年をして独身者ということは、なにかしらの障害でもあるかのように思われたのではないかと考えたからである。ところが智子はそんな素振りも見せずに、料理を楽しんでいた。そんな智子を見て、私は過去には触れないように心掛けた。今を楽しむべきであり、私の過去など、智子とは無関係だからだ。他の常連たちとも大いに騒ぎ、少しでも楽しい時間を過ごそうと努力を重ねた。それが十分に伝わったかは分からないが、智子も笑顔を絶やさなかった。あっという間に過ぎた時間は、すでに深夜になろうとしていた。流石にこれ以上、若い女性を引き留めることに罪悪感を感じた私は、
「そろそろお開きにしますか」と智子に尋ねた。
「そうですね、かなり酔ってしまいました」と智子は答えた。お酒の酔いもあるのだろうが、見れば眠そうな目をしている。
「そうですね。長い時間引き留めてしまって申し訳ない」
「いえ、楽しかったです」智子はそういうと私の肩にもたれかかった。智子の髪から私の男を刺激する香りが漂った。今にも我を忘れそうになりながらも、私は平静を装い通した。智子は駅前のビジネスホテルに宿泊していると言った。
私はタクシーを呼んでもらい、無言で智子を乗せた。何か言葉を発したら、取り返しのつかない事態が起きそうな気がして、口を開くことが出来なかった。
「今日はありがとうございました」智子はタクシーの窓から顔を出し、手を振りながら深夜の街へと消えていった。私はその姿をじっと見つめていた。智子とは携帯の番号すら交換していなかった。行きずりの一日を共に楽しんだ間柄、それだけにしておきたかったのかも知れない。
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