第5話
「待たせたね」恐らく私は満面の笑みを浮かべていたに違いない。
「大丈夫ですよ。マスターから名所を聞いていました」と彼女はにっこりと笑った。店主もこの騒動に乗りたかったようだ。店主にしてみても、めったに起きない事件なのかも知れない。喫茶店を経営していても、恐らく平々凡々とした刺激のない日々を送っていたに違いない。常連ばかりならばそれも仕方のないことだろう。当然のこと、私にしても大事件である。こんなことは何十年も起きていない。店主の彼女を値踏みするかのような視線に、僅かな嫌悪感を感じたが、本音を言えば、店主には助けてもらった形だ。私は引っ越してきてから、この近辺以外どこも散策したことがなかったからだ。彼女が渡された地図には、神社や仏閣、有名なビルや景色の良い展望台など、私の知らない名所が数多く載っていた。どうやら、商店街の組合で作成されたものらしい。しっかりと喫茶店の宣伝も地図の片隅に載っていた。通勤で電車は使うため、どの路線かはわかる。それらを確認してから、私たちは喫茶店をあとにした。最寄りの駅に向かう途中、私は彼女に尋ねた。
「どこが見たいですか?」
「おすすめはあります?」
「私もあまり知らないのですよ。地元ではないので」私の困った顔を見て、彼女は地図の一か所を指さした。
「じゃ、ここの神社にいきましょう」と、渡された地図を見ながら彼女は屈託のない顔で答えた。まさかこんなことになるとは、私は微塵も想像していなかった。。朝、喫茶店に向かうときは『もう一度顔を見たいな』程度の軽い気持ちだったのが、今は並んで歩き、どこに行こうかと相談しているのだ。二廻りも違うような出会ったばかりの男と女がだ。他人さまから見たら『親子』だろう。しかし、どんな風に見られようが、私は彼女の顔を見るだけで幸せを感じることが出来た。改めて見ると薄れがちだった彼女の顔が完全に思い起こされ、過去に戻ったような気分だ。その昔、彼女と歩き、会話を交わし、ともに笑った日々が記憶の箱から溢れ出していた。
「あ」彼女はふいに声をだした。
「どうしました?」すると彼女は大笑いしながら答えた。
「まだ、名前も言ってませんでしたね」
「あ、そうですね」考えればおかしなものである。名も知らぬ同士が一緒に歩き笑っているのだから。すると彼女は言った。
「下の名前だけを教えあいましょう。私は智子です」とちょこりと頭を下げた。
「わかりました。健司です」私もしっかりと頭を下げた。
「よろしく、健司さん」
「よろしく、智子さん」そして二人は握手を交わし、さらに笑った。道端で握手を交わし笑う二人を、通行人は好奇の目で見ているはずだ。しかし、私にはそんな視線もまったく気にはならなかった。それよりも誇らしい気持ちの方が勝っていた。
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