第2話

 土曜日の朝、私はその喫茶店に足を向けることにした。今日は月に一度の連休の日。いつもは日曜に行くのだが、気候の良くなった時期と言うこともあり、早々に目が覚めてしまった。軽い朝食を摂り洗濯機を回したまま、髭も剃らずに私は家を出た。商店のほとんどはまだシャッターが下りたままで、人通りも少なかった。それでも、駅へと足を速めるサラリーマンや、颯爽と自転車で通り過ぎる学生の姿は、普段通りの生活を感じさせていた。店内に入れば、いつものように見慣れた顔が揃っていた。この店も、至極普通の日常の世界で私は安心感を覚えた。店中に漂うコーヒーの香りが、私の脳を覚醒させるのが分かる。軽く会釈をしてカウンターに座ると、ドアに取り付けられたベルが鳴った。客同士の会話を阻害しない程度の音も、長い時間その音を響かせてきたのだろう。その小さな音に皆の視線が入口へと向けられたが、私には話す相手もいないことから、その行動には追従しなかった。黙って煙草に火をつけ、出されるコーヒーを待っていた。コーヒーカップは毎回違うものが出てくる。様々な色とデザインのセットが、カウンター内の棚に飾られている。その中から、店主が無造作に選ぶのだ。はっきりとした意図があるのかも知れないが、それは私にはわからない。けれども、私にとってはそれも一つの楽しみになっている。だから選定基準を尋ねたことは一度もない。今日はどのカップかな、と考えていると、

「ここいいですか?」と、ふいに声を掛けられた。声のほうにゆっくりと振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。今しがた入ってきた人だろう。その女性は隣の席の背もたれを掴み、私の返答を待っているようだ。当然のこと誰か来る予定もない私は、女性の顔をろくに見ずに、

「どうぞ」と答えた。店内をチラリと見回すと席はいくらでも空いている。カウンター席も、私とよく見かけるおばさんの二人しか座っておらず、間には六席ほどの余裕がある。わざわざ隣に座るのも可笑しな行動に感じた。ましてや尋ねる必要などないとも思った。カウンター内にいる店主もなにかぎこちない。ブルーのワンピースに淡いピンクのカーディガンを羽織っている女性は、きっと初めてのお客なのだろう。私が初めて来たときの店主の対応を思い浮かべ、無理矢理にそう結論付けた。そして私はすぐに煙草を消した。禁煙が叫ばれる中、何か悪いことでもしているような錯覚に陥ったからだ。それとも、若い女性と言うことで、礼儀正しさを見せたかっただけかも知れない。彼女は丁寧な口調で紅茶を頼んだ。その声は不思議と私に懐かしさを運んできた。チラッと見た横顔も、懐かしさを覚える顔だった。するとその女性はバッグから煙草を取り出した。それを横目で見ながら『良かった、吸うのか』と安心した。コーヒーと煙草のセットは私の中では欠かせない取り合わせである。お酒もそうだ。たまに行く焼き鳥屋でも煙草は欠かせない。『健康のため云々』は私にはどうでもいいこと。気がかりなのは頻繁に値上げする値段だけである。

「火を貸してもらえますか?」彼女は煙草を一本取り出すと私に尋ねた。

「え?ああ、いいですよ、どうぞ」と使い捨てのライターをカウンターの上に置いた。そして彼女が隣に座った理由を見出した気分になった。単に、ライター目当てで隣に座ったのだろうと。そう考える事で、彼女の行動を理解した気になっていた。煙草に火をつけて、一息吐き出してから彼女は、

「ありがとう」とライターをあった場所に戻した。ライターはその場に置いておくべきか迷ったが、私はそれを自分の煙草の上に置いて、

「いえ」とだけ答えた。すると彼女は声を潜めるように話し始めた。

「今は禁煙ブームだから辛くて」話掛けるれたことにも驚いたが、その顔をまじまじと見た時には大きな衝撃となって私を襲ってきた。『似てる』

「いえ、私も吸う人間ですから、その気持ちもわかりますよ」と平静を装って私は答えた。正直、女性だから喫煙は良くない。などと言う偏見は持ち合わせていない。男女問わず、趣味趣向品はあくまでも個人の自由であり、尊重されるものだと思っているからだ。

「全席禁煙のお店とかもあって困ります」と彼女は苦笑いを浮かべた。『やっぱり似ている』

「近所の方ですか?」そんな彼女が気になって私は尋ねた。

「いいえ、ちょっと用事がありまして、一週間ほど近くに居ります」

「そうですか」彼女の返答に、少し残念な気持ちを感じた。第一にこの喫茶店で初めて話した客だということ、そして忘れられない人と瓜二つだということが、その感情を湧き出させた。と同時にそれ以上、彼女の顔を見ることが怖かった。見れば見るほど似ているからだ。それから彼女はゆっくりと紅茶を飲み干すと、笑顔で店を後にした。その間、私は彼女のことが気になって仕方がなかった。だからと言って、話し掛ける理由も探せずに、店を出て行くその後姿を、黙って見送る事しか出来なかった。来店時とは違い、店内には誰もその姿に目を向ける者はいない。その初見であろうお客に関心を示す者は私以外にはいなかった。彼女の洗練された服装が理由なのか、地方都市の商店街には、確かに不釣り合いに思えた。それからその日は、特に結婚に失敗した理由が頭の中を占領していた。喫茶店で会った女性のせいだと言うことは分かっていた。彼女は今でも心に残る人にそっくりだったからだ。

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