ダイイングテーブル
ひろかつ
第1話
この街を選んだ理由は特になかった。ただ、日々変化する都会の姿に、心底、疲れてしまった為だ。喧騒から抜け出したと言えば聞こえはいいが、結局のところ、弱肉強食の世界で負けただけだ。軽度の人間不信に陥り、怯えるような生活から逃げ出し、全てを捨てて移り住んだ。だからここには七年もいるのに、生活半径は極めて狭い。地方都市とは言え、ゆっくりとだが確実に変化はある。その変化にも対応できなくなったらと、私は恐れた。だから、ほとんどこの街のことは関しても知ろうとしなかった。少し足を延ばせば観光名所もあるが、私の足が向くことはこの先もないだろう。足が向くのは生活を送るためだけに出歩く程度だ。唯一、駅に向かう商店街にあるスーパーマーケットだけは、毎日のように通っている。小さい割には多くの総菜が並べられていたからだ。その総菜を目当てに帰宅途中に寄るのが、私の生活の中での日課となっていた。最初こそ、主婦たちに混じってレジに並ぶのが恥ずかしくも感じたが、今では慣れてしまった。普通に生活を送る人間は、それほど他人に関心がないと気が付いたからだ。それからは他人の眼を気にすることもなくなった。たまに珍しそうな視線を向けられるが、今ではそんな視線も気にはならなくなった。それよりも、一円でも安い商品を探すほうが主婦たちにとっては重要なのだと理解したからだ。いつものようにそこで買った総菜を、部屋にある古い電子レンジに放り込む。この手慣れた行動は、目を瞑っても完璧にこなせるような気がするほどだ。ご飯だけは炊いてあるが、毎回炊く四合のご飯は二日はもつ。炊きたてでなくとも構わない。空腹さえ満たされれば、眠りにつくことが出来る。そんな味気ない晩御飯を口に運びながら、もう何年も「いただきます」と言っていないことにふと気が付いた。それも致し方のないことだろう。帰宅すれば無言の時間を過ごすだけだ。テレビさえ見なくなった。だから狭い一室はいつも静かだ。隣の住人の発する生活音が、不思議と安心感を与えてくれるほどだ。今ではその小さなアパートが、私に残された唯一の居場所でもある。生活は至極単調。起きて仕事に向かい、帰りにマーケットに寄る。そして眠る。その繰り返しの日々である。簡単ならば料理を作ることもできるが、自分のためだけに作ることが億劫に感じる。殆ど残業のない仕事には感謝している。しかし、給料はあまり贅沢の出来ない額でもある。だから単調な生活になるのだろう。若い頃にはそれなりに稼ぎもあった。自分で事業を起こしたこともあった。けれども、二度の結婚生活に失敗してすべてに気力がなくなった。何故、失敗したのか。無言で生活する時間が増えると、それらを冷静に考える時間ができる。そしてその理由を頭の中で羅列する。しかし、理由は一つだけだと言ってもいいだろう。ずっとその一つの理由を分かってはいたが、そのことを認める自分を許さなかった。だが、今ではしっかりとその理由を理解し、そして、死ぬまでそれを後悔し続けるだろうことも覚悟している。
そんな生活を送る中、最低でも週に一度は、商店街の喫茶店でコーヒーを飲む。古くからある店なのは一目でわかった。正面に見えるレンガの壁はあちこちが剥がれ落ち、派手な明かりも灯ってはいない。小さな木製の看板は色褪せ、継ぎはぎされて置かれていた。それでも、いくつか置かれた草花だけは、しっかりと手入れはされていた。店内も決して綺麗とは言えないが、その事が逆に私を安心させた。ヤニの染みついた壁や、いつ飾ったのか想像すらできない絵や置物。そんな一つ一つに私の知らない歴史が刻まれているのだろう。壁に掛けられた鳩時計から、鳩が出るカラクリは一度も見たことがない。ただ静かに時だけを刻んでいるだけであった。カウンターにある煙草の焼け跡一つを例に挙げても、誰かが何らかの理由で残したものであり、そこには少なからず物語があるはずだ。そんな物語をあれこれ想像するのも楽しみだった。サイフォンで一杯一杯丁寧に入れてくれる珈琲も、カンター越しに見られる良さもあった。そんな佇まいの店を私は気に入っていた。商店街ということもあって、お客は顔見知りばかりのようだ。口髭を生やした初老の店主と、常連客が話し込む姿を何度も見かけている。しかし私は、その領域には入れてはいない。けれども、彼らの輪に入ることにも抵抗があった。注文するときに言葉を交わすくらいだが、季節を問わず、常に暖かいコーヒーを頼むことはだけは覚えてくれているようだ。家にもコーヒーメーカーはある。けれども、店で飲むコーヒーはやはりどこか違う。だから数少ない贅沢の一つとして週に一度くらいは通っている。私がコーヒー好きになった理由は、両親が喫茶店を営んでいたせいだ。高校生になる頃には店の手伝いをして、コーヒーの淹れ方などを学んだ。そして挽いたばかりの豆の匂いや、お湯を注いだ時の香りに夢中になった経緯がある。そんな両親も今は揃って他界しているのも、私にとっては救いだろう。
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