第37話 その原因の一つは、予断を覆されること
前回までのあらすじ
家出少年オスカー・ワイルドと謎の美女スキットルズを連れてチャールズ・ダーウィンのもとに向かったフリードリッヒ・ニーチェとフランツ・リスト。
しかしダーウィンだと思い追い詰めた相手は、影武者のゴリラだった。
進化論に対する批判で落ち込んだダーウィンはゴリラを身代わりにして隠遁してしまったという。
ルサンチマンへの手がかりを失ったニーチェは、ワイルドやスキットルズへの嫉妬心も膨らみ一人別行動をとることになる。
だが見知らぬ国で一人でいられるわけもなく、彷徨う失意のニーチェに手を差し伸べたのは例の影武者のゴリラだった。
運の悪いことにそこにゴリラを狙う密猟者が襲いかかる。
共に助け合いながら逃げるゴリラとニーチェの間には、友情が芽生え始めていた。
ゴリラの思いを受け入れ、彼と別れてリストたちと合流するニーチェ。
一際大きく成長したニーチェをリストは快く迎え入れた。
☆
「それしか手はないか……」
フランツ・リストは苦渋の表情で言った。
「なに深刻ぶってるの。私なら平気。それに
「もちろんです。危険のないようにします」
スキットルズの一際明るい声にニーチェは緊張しながら答える。
女性を攫っていくという畜群の性質を利用し、囮作戦に出ようという提案が出たのだ。
「このようなことを頼むのは、このフランツ・リスト誠に心苦しい。せめてもの報いだあなたのために曲を創ることを約束する。スキットルズ」
「キャサリン。キャサリ・ウォルターズ、それが私の名前。嬉しいわ。フランツ・リストに想われて曲を創ってもらえるだなんて。任せて」
スキットルズは軽く胸を叩いてそう言った。
性格の読めない彼女であったが、むしろそこには女性や男性といった性質から超越した勇気のようなものを感じる。
初めはニーチェは彼女のことが苦手であった。
そもそも女性に慣れないニーチェにとってその存在自体が鬱陶しくてしかたがなかった。
また自覚はしていなかったが、どこかで女性そのものを見下していることにも気がついた。
女は学問にも疎く、感情的で理屈にあわないことばかり言い、そのくせ色気で男をコントロールしたがる。
しかし母と妹以外で初めて長い時間女性とともに過ごしたことによって、その思いは変化していった。
スキットルズは非常に複雑な思考をしているが、求めるものへは真っ直ぐに突き進む。
ともすればそれは周囲の不興を買うことにもなるが、上っ面だけで切り抜けようとする人物よりはよほど気持ちが良くもある。
自由を求めるという発言もそうだ。
彼女の求めた自由とは、およそニーチェが想像するものではなかった。
彼女が欲したのは正しくないことをする自由、軽率に間違う自由だ。
もちろんそれが愚かな振る舞いであることは言うまでもない。
しかし「女なんだから」という抑圧が彼女に課してきた
彼女は支配を好み、自分の感性にあわなければどれほど有意義であろうと拒否をすることができる。
女性であるということよりも、スキットルズであるという感覚、それはニーチェにとって不思議なことに好感が持てた。
ある意味、フランツ・リストに対しても、高杉晋作に対しても同じように感じた、それまで思い描いていた自分の中の想像を超えた実在の影響力の大きさを心地よく思えたのだ。
スキットルズは用意をすると言って席を外した。
それから半日。
リストがポツリと言った。
「あの女、……逃げたな」
「逃げましたね」
ニーチェもやるせなさ一杯で同意する。
「あんなに意気込んで見せたのに逃げたの?」
オスカー・ワイルドが声変わりのしてない少女のような声で言った。
「そういう事を平気でやれる女なんだよ。こっちの感動とかそういうのまったく気を使わないの」
「格好の良い生き方じゃないの。花は他人の都合で咲いたり散ったりしないもの」
「花の話はしていない。人間の話だ」
「顔も歪なら頭も歪なの。せっかくいい手を思いついたんだからそれでやればいいじゃないの。畜群は女を攫うんでしょ。僕が囮になろうじゃないの」
「キミは子供じゃないか」
「そうなの。見た目は子供に違いないの。だからなに? 畜群はそれでも襲うんでしょ」
オスカー・ワイルドは、凝った装飾のスカートをひらめかせる。
「オスカー。痩せても枯れてもこのフランツ・リスト、そのような真似だけはできかねる」
「はぁ。正直あなたにはガッカリなの。天才なんでしょ、リストさん。なんで凡人と同じことを言うの?」
「キミが年端も行かぬ子供だからだ。大人には子供を守る責任がある」
「ならそれでいいの。責任を全うして僕を大事に大事に扱っているといい。そして僕が大人になった頃にはルサンチマンによって人類はすべて畜群にされてるの。それがあなたの言う責任ってことなの」
「詭弁を弄するな。他に手がないかを考えるのが先だ」
リストが静かに怒りを込めてそう言い聞かせると、ワイルドは反発するように甲高い声で叫んだ。
「いいや。僕の心が先なの! 人の心は移ろいやすいの。情熱はすぐに冷める。そして人は歳をとりつまらない打算を心よりも優先するようになるの」
「それは子供の理屈だ!」
「違うの! 僕の理屈! オスカー・ワイルドの理屈なの! あなたの言葉はフランツ・リストの言葉じゃない、ただのおじさんの言葉なの!」
「この私は、フランツ・リストであり、天才音楽家であり、人の親でもあるのだ」
「それがガッカリなの。天才が天才でいられる時間は短い。自分のひらめきに従順でいられなくなる、その言い訳に協調だの調和だのって、凡人たちの世界に迎合するの。あなたの美は煤けてるの。どれほど美しいものを見せてくれるかと思ったら、フリッツがいないだの、高杉ならどうしただの、ショパンに会いたいだの、泣き言ばかり。フランツ・リスト、少なくともあなたは天才ではない。元天才なの」
にらみ合い膠着するリストとワイルド。
こうなってしまうとニーチェは何も言えなくなってしまう。
今までこういう時は、高杉が緊張感を台無しにするくだらないことを言い出してかき回してくれた。
高杉のように振る舞うことはニーチェにはできない。
だけどこういう場面こそ風通しを良くすることがいいと彼は教えてくれた。
ニーチェはなるべく不審に思われないように笑顔を作ってリストに尋ねた。
「リストさん、泣いてたんですか?」
「そのようなことはない!」
「言ってたの」
「ニュアンスが違う!」
「正確にはなんと言ったのですか?」
「覚えていない。覚えていないということは、覚えていないほど些末だということだ」
リストはこれ以上の追求は一切受け付けないという意志を見せるように、腕を組んで顔をそらした。
たとえそれがどのようなものであったとしても、フランツ・リストの頭の片隅にニーチェがいたこと、それは踊りたくなるほどに嬉しいことだった。
ふと辺りを見回すと今まで今までの騒ぎの元凶がいない。
「あれ? オスカーは?」
「さては! まったく、手のかかる子供ばかりだ!」
「ボクは違いますよね?」
「もうその話は終わりだ!」
ワイルドを探して走りだすリストの後ろ姿を、ニーチェは追いかけた。
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