第31話 野球回のある物語は名作である

前回までのあらすじ


 自らの身を呈してニーチェとリストを救った高杉晋作。

 その犠牲の重さに打ちのめされていた二人の元に、謎の女スキットルズが再び現れた。

 彼女は高杉を救う策があると告げる。

 スキットルズの作戦にのり、ヴィクトリア女王の子息エドワード7世を挑発し、クリケットの試合をする運びとなった。

 リストの音楽家としてのすべての栄光を賭けた試合はヴィクトリア女王も観戦することとなった。

 試合は拮抗したが、エドワード7世の球をフランツ・リストが秘打『愛の夢』で打ち返して逆転勝利した。

 時を同じくしてスキットルズは高杉を脱獄させることに成功する。






 スキットルズは懐から紙束を出して言った。


「晋作からの手紙よ」

「あの男、字が書けたのか」

「私が代筆したの」

「どうりで、いい匂いがする」


「リストさん、いい加減にしてください。そもそもボクはこの美女を信用してません」


 リストは高杉からの手紙に目を通す。

 読み終わると無言でニーチェに紙束を押し付けた。


 ニーチェはリストとスキットルズの顔を見回して手紙を読み始めた。


『リストの旦那、ニィちゃん。今頃はワシへの感謝の気持ちで涙を流していることと思う。だがその涙は右目の分だけしか受け取れん。おぬしたちの身よりも、ワシの最高の見せ場じゃと身体が動いてしもうただけじゃ。今にして思えばワシは死に場所を探しとったんじゃろうな。松陰先生が身罷みまかられ、あれだけの才を活かすどころか潰すことしかできんつまらん世界なんぞアホらしゅうなとった。しかしいざ死ぬっちゅうと欲が出てくるのが人間の情けなさ。おぬしらと旅をしたのはつまらん世界と一蹴するには惜しい面白さじゃった。本音を言うとな、おぬしらが助けに来てくれるんじゃないかとも期待した。さすがワシの見込んだリストの旦那とニィちゃんじゃ。それに考えてみたら犬死にちゅうのも馬鹿らしい。女王暗殺と聞いて思いついたが、死ぬくらいなら国に戻って将軍を暗殺してやろうかと思う。なにぶん追われる身じゃ、もう一緒には行けん。寂しいじゃろ? ワシは寂しい。上手いこと北欧から来た変わりもんと知りおうたんでなんとか国に帰れそうじゃ。ワシの国はきっと面白いことになる。身を立てたらきっとおぬしらの耳にも入るはずじゃ。それを楽しみにしておれ』


 ニーチェが顔を上げると、リストは泣いてはいないまでも沈鬱な面持ちだった。


「最後まで身勝手なやつだ」


 リストは吐き捨てるようにそう言った。


「さ、ダーウィンのところに行くんでしょ? 急ぎましょ」


 それまでの空気を断ち切るようにスキットルズがそう言って歩き始めた。


「いやいやいや。なんで仕切ってるんですか。一緒には行きませんよ。ねぇ、リストさん?」

「今まで三人での旅で予定を立ててしまっていたから、こればかりは仕方がないな」

「いつ立てたんですか。だいたい予定とか立てずにアドリブで行くって言ってたじゃないですか。なんでこの美女に甘いんですか!」


 ニーチェが詰め寄ると、リストはスキットルズから距離を置き、囁いた。


「あの女の危険さ。そしてしぶとさ。この私に一つ心当たりがある。ひょっとしたらスキットルズは、今までこのフランツ・リストに関わってきた女の念が集まってできた生霊なのかも知れん」

「そんなに恨まれるようなことしてきたんですか?」

「しようと思ったわけではない。結果的にそうなっちゃうことは誰にでもあり得るだろ」

「ないですよ」


 ニーチェはスキットルズに向き合い、強く睨みつけて尋ねた。


「ス、ス、スキットルズさん。あなたの目的は何なんですか?」


 スキットルズは微笑みをたたえたまま、ニーチェに近づく。

 そして無言で顔を覗き込むように近づけてきた。

 思わず目をそらしたが、彼女はそれを追いかけるように回り込んで目を合わせてくる。

 無言の圧力に耐えきれず、ニーチェは目を瞑って頭を振る。


「何なのか知りたい?」


 スキットルズの甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「もういいです!」


「私はね、世界中の女が未だ誰も手に入れたことのないものを求めてるの」


「俗な夢だ。宝石か?」


 リストがそう尋ねるとスキットルズは振り返って答えた。


「自由よ」


 ニーチェはその意外な答えに口をつぐむしかなかった。


 その時、まだ幼い少女がリストの足にしがみついた。

 辺りには親らしき影は見当たらない。


「こんな小さな女の子が一人で? お嬢ちゃん、親御さんは?」


 ニーチェが膝を折って尋ねると少女は指を突きつけて言った。


「顔がいびつ


 思わず絶句するニーチェ。

 少女はリストとスキットルズも指を差す。


「美男、美女」


 蹴り飛ばしたくなる衝動を抑えながらニーチェは立ち上がった。


「良かったですね。リストさん、幼いとはいえ女性に褒められて」


「何を言っているフリッツ。この子は事実を述べただけで別に褒めてなどいないではないか。それに女性というのも間違いだ。このフランツ・リスト、女性に触れればたちまち愛がほとばしる体質なのだ。少女の格好をしているが、この子は男の子だ。そうだね?」

「そうなの。可愛かろ?」


 少女の格好の少年はスカートをつまみ上げて慇懃に礼をした。


「男? こんな子供なのに。なんて格好をさせるんだ」

「顔も歪な上に頭も歪。僕はこの格好を気に入ってるの。可愛いし周りの受けもいい。そう言う事を考えられないから歪なの」

「人に! 年上の人に! そういうことを言ってはいけないと躾けられなかったのか?」


 少年は大人びたため息を吐いて肩をすくめる。


「歪……。面白そうな人たちだと思ったのに。僕はそういう凝り固まった世界から逃げるために家出をしてきたの。まぁ、歪は放っておくの。あなた、そしてあなたには美がある。僕の見立てに間違いはないの」

「いかにも。この私には美がある。もたもたしてはいられん。共に行こうか。名はなんと言う?」

「オスカー。オスカー・ワイルド。ちょうど人生を儚む年齢なの」

「どう見ても5歳かそこらだろ!」


 リストはニーチェに対して冷たい目で言った。


「幼いからといって見くびるものじゃない。この私がこの子くらいの時にはかのベートーベンにものすごい天才児だと褒められていた」

「だって、連れて行っていいんですか? 家出してきた子ですよ」

「家出した子を放っておけというのか。フリッツ、キミには愛というものが足りない」

「歪で足りないの」


「わかりましたよ。ただ何があっても知りませんよ。畜群に襲われたって」

「どうしてそこまで意地悪なことを言うのだ。助けてあげればいいだろ。今までもそうしてきたはずだ。困ったものだな、少しは頭を冷やしたまえ」


 リストの言葉はニーチェの胸の奥を苦いものでいっぱいにした。

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