はみ出しミニーチェ『道徳の系譜』

 ニーチェの著作は物語形式になってるものが多く、『道徳の系譜』は彼の著作の中では珍しい論文形式となっている。

 なぜ、そういう形式をとったのは後述するとして。


 その中でニーチェは道徳、善いことと悪いことがなぜそう思われているかを語っている。


 そもそも善いことは、立派な自分が立派なことをしたという自己肯定から生まれた『貴族的道徳』から来ており、その時点では特に悪いことと対立構造ではなかった。


 貴族的道徳における善いことの反対にあるのは、無邪気や率直であり、動物的な感覚で行う行為が配されていた。


 しかしやがて善いことの反対に位置する悪いことというものが意識される。


 『するべきこと』の反対にあった『しなくていいこと』は『してはいけないこと』に入れ替わる。


 そしてちょっと複雑になるのだけど、貴族的な立派な人が立派なことをするという行いが、ある時から悪いこととされるようになったのだ。


 それは立派ではない人の中から恨みや妬みによって生まれたルサンチマンという感情に起因する。


 「どうせ俺たちはあんな立派なこと出来ないし、だいたいそんなの立派か? ああいうのは傲慢で尊大でろくなもんじゃない。それに比べて俺たちは大人しく従順でよっぽど偉いじゃん。なぁ、みんな?」


 これは当時の一般的なモラルの基準となってるキリスト教的な禁欲主義、それに従う傾向から『僧侶的道徳』と言われる。


 ニーチェはそれに対して「そういうのがダメなんだよ!」と優しさの欠片もない切り捨て方をする。


 その僧侶的道徳は「みんな我慢してるんだから俺も我慢しなきゃ」とか「捕まるから犯罪はできない」とか「嫌われたくないから反対しません」みたいな他人の目によって決めてる善いことじゃないか。

 そんなのは全然善くないから!


 お前らは自分の意志で行動できないから、他人の評判を気にした『善いこと風』なことしかできないんだよ。

 本当にできるやつってのは、自らに課した課題を乗り越えていく、約束を守る人間なんだ。

 ネットで炎上してるやつを叩くよりも、するべきことがあんだろうが!


 ということを言ってる。


 大変立派なことを言っていて、得心する人も多いとは思うんだけど、可愛らしいことにニーチェってものすごい他人の評判気にするんだよね。


 『道徳の系譜』も前に出した『善悪の彼岸』という著書がいまいち評判悪かったので「ちょっと、もう一回! ちゃんと言わせて!」みたいな感じで出てるのである。

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