第19話 すべてのものは等しく価値がない

前回までのあらすじ


 謎の美女スキットルズに窮地を救われたニーチェ一行はヴィシーの温泉に逗留する。

 混浴温泉をめぐり一騒動起きるが、幸い誰も死ぬことなくことは収まった。

 なんとかアンリ・ファーブルの元へたどり着いたが、好ましい接見は言えなかった。

 敵意を剥き出しにするファーブルによってスキットルズは捕らえられ、毒虫の檻に入れられてしまう。

 そこで提言されたファーブルの言葉は一行を驚嘆させた。






 ファーブルは全身にボロ布を巻きつけた禍々しい格好だった。

 見世物小屋で見るエジプトのミイラの絵のようだ。

 顔も半分以上布に覆われていて、どんな表情かわからない。

 しかし、片方の目だけギラギラと光らせて言った。


「フランツ・リスト! 世界の富と名声をほしいままにしている男だ。その富はお前のその手から生み出される。ならば、その指を落とせ。そうすればこの女を助けよう」


「バカなことを言わないで下さい!」


 ニーチェの反論を無視してファーブルは背中を向けて小屋の中に入っていった。

 その際に呟くように言った。


「虫の毒は、苦しいぞ」


 残された三人の重苦しい空気に穴を開けたのはフランツ・リストだった。


「この指を落とそう。小指がなくなると音域が狭くなる。落とすなら薬指だな」

「何を言ってるんですか。そんなことボクが許しませんよ」


 顔を赤くして叫ぶニーチェにリストは力を抜くような笑みを浮かべて言った。


「なに、このフランツ・リスト。かねてから指が六本あるなどと噂されているほどだ。一本落としたところで常人並みになるだけ。そう悲観することもあるまい」

「そんなこと冗談でも言わないで下さい」

「しかしスキットルズという女。油断ならない女ではあるが見殺しにするわけにもいくまい」


 リストの言い分はわかる。

 しかしだからと言ってそれを受け入れることなんてできるわけがない。


「リストさん。それはただ単に自分の善性に酔ってるだけです。あの女が犠牲になる後ろめたさに耐えられないだけだ。自らを犠牲にして利他的な行為を選択することが良いことだと盲目的になってます」

「フリッツ。この私を侮辱しようというのか」

「そもそも何が善いことで何が悪いことなのかなどというのは規定できるものじゃない。そこにあるのは自分の視点、思い込みだけです。ボクにとって稀代の音楽家、フランツ・リストの指を失うこと以上の悪はない!」


 ニーチェは奥歯を噛み締めてリストとにらみ合う。

 長身のリストの目は、怒りよりも憐れみのような色が浮かんでいる。


「つまらんことを言い合ってどうする? おぬしたちゃ生真面目すぎるんじゃ。どっちもどっち、真っ直ぐにぶつかりおって疲れてしまうぞ」


 座り込んだ高杉がニーチェとリストの間に小石を投げ込みながら言った。


「高杉、貴様は黙ってろ」

「黙ってろと言われて黙っちょるワシじゃないことくらい、もう知っとろぅが。ええか? リストの旦那は無茶を言っちょる。そんなことはリストの旦那自身がよぉくわかっちょるのよ」

「そんなことはない!」

「ほらな? 頑なじゃろ? 自分が無茶を言っちょる自覚があるから認められんのじゃ。そんなもんに正論を返してもしゃーない。言ってる方もそんなことは百も承知よ。正論なんぞ言われても余計にこじれるだけじゃ。ほんでどっちが正しいと言い合ってお互いに疲れ果てて、そんでどぉする? 最後は捨て台詞を言って相手を見限って終わりじゃ。自分は正しかったっちゅう虚しい勲章だけが残る。そんなもんは誰も喜ばん」


 高杉がリストとニーチェを交互に見て演説をぶつ。


 確かにもっともらしく聞こえるが、ニーチェの気持ちはそれでは収まらない。


「高杉さんはいつもそうやって煙に巻くだけじゃないですか」

「目指すべきは正しさじゃない。お互いに許せる落とし所っちゅうのを探すことじゃ。その場所はどっちにとっても正しくない場所かも知れん。でも誰かにとっての正しさなんかよりゃよっぽど先の世界に続くと思うがの」

「ボクの考え方自体が間違ってるってことですか?」

「そうじゃない。ぬしゃ正しい。だが無茶に正しさで向かってどうする?」


 ニーチェがなんと言おうかあぐねていると、高杉はリストに向かって言った。


「ピアノはもう嫌になったんかい?」

「バカを言うな。音楽は常にこのフランツ・リストと共にある」

「ほうか。そりゃ年がら年中一緒にいちゃ飽きもする。そんな時にひょっこり新しいもんが現れたら飲み込まれよるわな。女も一緒じゃ。美人がどんな時も最高ってわけにはいかんのが難しいもんじゃ。リストの旦那はこれまで音楽にそりゃ尽くしてきたんじゃろ。だったらなおさら、それ以外はよく見えるじゃろうな」


 リストは目頭を長い指で抑えた。

 長い沈黙が訪れる。

 沈黙に緊張感は高まっていったが、ニーチェの感情の高ぶりは徐々に収まっていった。

 リストはそのまま顔を上げずに言った。


「高みを目指すことは素晴らしいことだ。そのことは一片も疑ったことはない。しかし登れば登るほど、その景色を理解できるものはいなくなる。そんな時に同じように高みを目指す友人に出会い、どれほど救われたことか。その友も、もういない。誰もが死んでいく。この私とて例外ではない。圧倒的に若く溌剌としているがもう50になる。あとどれほど生きられるかもわからない。ベートーベンが亡くなったのも同じくらい。モーツァルトなど30そこそこで死んだ」


「サリエリは75才まで生きました」

「あの爺さんは天才じゃなかった」


 ニーチェの言葉にリストは即座に答えた。


「――別に死が恐ろしいわけではない。しかし虚しくはある。だから決めたのだ。結婚をしようと!」


 ニーチェはその言葉に、顔が逆さになるほど首を傾げて言った。


「んん? いきなり話が飛びました? なんか『だから』という接続詞の中に相当な数の思考と決断が省略されてる気がするのですが」


「この私は結婚をするのだ。妻が再婚のために教会の許可を待っているところだ。思えば人のできないことばかりを成し遂げ、誰もが当たり前のようにやることを何もしてこなかった。そこにある人生の喜びを知ろうともしなかった」


 その言葉にニーチェは綿が火に触れたかのような激しい怒りを覚えた。


「これほど嘆かわしいことがありますか。天才フランツ・リストが、煤まみれの職工のようになりたいと言うのですか? 世界中の人の心を輝かせることができるあなたが、酒場でくだを巻く親父と同じ……」

「息子が死んだ」


 ニーチェの言葉を遮ってリストは呟いた。

 その小さな一言は、ニーチェの感情を一気に冷やした。


「――父親と呼べるようなことは何もしなかった。幼い頃に別れてからはほとんど顔も見てなかった。音楽という怪物と向き合うには、そんなものに目をくれていやる暇なんてなかった。しかし思うのだ。そうではない生き方があったのではと」


「ショパンは病床でもピアノを弾き続けたんじゃないんですか」

「フリッツ、キミに何がわかる!」

「わかりませんよ! フランツ・リストの思いも、フレデリック・ショパンの思いも、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの思いだってさっぱりです! だけど……、だけど今のボクの目の前にはフランツ・リストが生きている。ボクは今まで何度となくあなたに救われてきた。出会う前から、何度となく、あなたの音楽に。魂に。暗闇に指す一条の光と縋ったことがどれほどあったか。それを、その生き様を虚しいだなんて言うのは、たとえ本人でも看過できない」


 高杉が手をパンパンと叩いた。


 感情の渦の中を漂っていたニーチェの意識は一気に引き戻された。


「ま、そういうこっちゃ。人っちゅうのはわけがわからなくなる生き物よ。別にリストの旦那も音楽を捨てたいわけじゃない。どこに正解があるかなんて誰にもわからん。だからこの旅は楽しいんじゃ。ほれ見ぃ、リストの旦那も顔が良ぅなっとる。なんじゃ? 照れ臭いんか?」


 高杉がそう言うと、リストは彼の頭を大きな手で鷲掴みにした。

 長身のリストにとって高杉の頭はちょうど握りやすい位置にある。


「つくづく不愉快な男だ」


 リストはそう言い捨てたが、鼻のあたりがヒクついて笑いそうになっていた。


「でもこれでどうすればいいのか見えてきましたね」


 ニーチェがそう言うと高杉が顔を覗き込んできた。


「ホントか?」

「ホントかって……。ファーブルの無茶にも理由があるってことでしょ。そこをなんとかすればいいんですよね?」

「はぁ、よぅわかったな。ワシャ人の機微っちゅうだけはさっぱりわからん」

「なんでそれであそこまで自信たっぷりに言えたんですか」


「あまりにも二人が真面目ぶっちょるからからかおうと思っただけじゃ」

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