第29話 意志を放棄した者のすがる手こそが、運命である
前回までのあらすじ
黒幕がダーウィンだと睨んだニーチェ一行は、ナダールの気球に乗ってドーバー海峡を渡ろうとした。
しかし気球には重量制限があり操縦ができる軽い体重の者がいない。
そこを買って出たのは、かつてニーチェたちを混乱させた謎の女スキットルズだった。
しかたなくスキットルズの操縦で気球によりドーバー海峡を超えるが、高杉のひょうきんな行動によりあえなく墜落。
運の悪いことに落ちた場所はバッキンガム宮殿だった。
衛兵たちから逃げようとしたニーチェたちは、またしてもスキットルズの口車に乗ってしまい身柄を拘束される。
女王を狙う不審者として捕らえられた一行は、言い分も聞かれずに極秘裁判にかけられることとなった。
☆
「まさかあのフランツ・リストがそのようなことを企むとは思えません」
唯一リストの名を知る高官がそう言い張る。
「まさかと思うからこそ成功するものだろ、暗殺というのは」
軍人上がりなのか、白髪の割には恰幅のいい女王の側近がそう言うと、周りのものも頷いた。
「特にその中国人だ。そいつらのアヘンのせいで我が国がどれほど疲弊しているか」
「高杉さんは中国人じゃなくて日本人です」
「同じだろ」
側近たちはニーチェの言葉も一蹴する。
リストの権威も通じなかった。
こちらの言い分を聞いたりすることもなく、女王暗殺だと勝手に決めつけられ話題はすでに刑罰はどのようにするかに移っている。
ニーチェは初めて来たイギリスという国で死刑されるのを待つ身となった。
これまでの旅、様々なものを見聞きした。
ありえないような状況にも直面し、そしてそれをなんとか切り開いてきた。
自分にそんなことができたのかと、驚くことも多かった。
そのたびにニーチェは自分の生きてきた世界の狭さを知った。
自分の小ささを知ることは悲劇である。
しかし同時に自分の力が未知の動力により加速していく快感もあった。
幸福ばかりではない、だからこそ世界には希望があると感じた。
それもここまでだった。
世の中に理不尽は存在し、力無きものはそれに翻弄されるしかない。
自らの知覚こそが世界を形作ると信じていようとも、首にかけられた縄を外すことなどできないのだ。
ニーチェの膝に染みができた。
自分ではどうすることもできない涙が溢れてくる。
世界中の者たちから非難されることは必死だが、ニーチェにはフランツ・リストと共に死ねることが救いだった。
あのリストと一緒に名を残せる。
なんたるエゴイズムと自覚はしている。
しかしもうそこにしかすがるものはなかった。
「しかしフランツ・リストを処刑したら、近隣諸国からなんと言われるかわかったものではありませんぞ」
「そんなものは病気なり事故なりいくらでも言いようがある」
「音楽界の損失はお考えにならないのか!」
「未来のある若い音楽家ならともかく、最近はリストの名なぞ聞かんぞ」
初めから刑を処することしか考えていない側近はどのような言葉も無駄だった。
そこに高杉がむっくりと起き上がった。
今まで意外性のある言動で場をかき乱してきた男だ。
その結果が良くない方に進むことの方が多かったが、この場をなんとかできるとしたらこの男しかいないと言える。
そんな一条の希望を抱いて見返した彼の表情は、今までニーチェが見たことのないものだった。
「リストォ! あんたの名声に縋ったがこのザマだ。やっぱりあんたは過去の偉人じゃねぇか! 女王の暗殺という任すら果たせなかった。なにが世界のフランツ・リストだ。お前のようなやつを攫うくらいなら別の名のある者にすればよかった!」
高杉はリストに飛びかかると後ろ手に縛られたまま凄まじい形相で噛み付いた。
すぐに衛兵たちに取り押さえられリストから離される。
高杉は歯が折れ、口から血しぶきと共に罵声を放った。
衛兵たちは警棒で高杉を打ちのめし、やがて彼は静まり動かなくなった。
「どういうことですか? リストさん」
先程からリストに好意的な態度をとっていた高官が尋ねる。
リストは服に染み付いた高杉の血を見ていた。
そしてゆっくりと口を開いた。
「このフランツ・リスト、あの男に囚われ気球に乗せられてここまで来た。女王の暗殺なんてことは知らない。この私とそこの少年フリードリッヒ・ニーチェはこいつの人質になっていただけだ。顔も見たくない。早くこいつを死刑にしてくれ!」
リストは顔が歪むほどに歯を食いしばってそう言った。
側近たちがざわつく。
「この男の仲間ではないのか?」
「仲間だと? このフランツ・リスト、心の底から許せないものがある。それは冒険家と本を読んでいないからとバカにする輩とひょうきんな日本人だ!」
やがて審議は終了し、高杉は連れ去られニーチェとリストは放免とされた。
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