第17話 多く美とされるものは表層にすぎず、そのまやかしは本質に迫ることを阻害する
前回までのあらすじ
超人になったフリードリヒ・ニーチェの力により畜群たちを撃退した一行は、ついにパリにてナダールに会った。
しかし芸術家肌のナダールは安易な頼まれごとを好まずに、リストの肖像写真の撮影ともう一つの要求した。
人里離れたフランスの片田舎アヴィニョンに住む蟲使いの奇人、アンリ・ファーブルの肖像写真を撮りたいというのだ。
パリからアヴィニョンまではフランスを縦断するほどの旅路である。
一行はジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールから最新のエンジンを載せた自動車を買い取り向かうことになった。
☆
周りを木々に囲まれ自然が音楽を奏でる。
それを引き裂く音量でニーチェの怒声が響いた。
「なにがいいアイデアですか!」
「ニィちゃん、今は犯人探しをしてるときじゃないぞ」
高杉が表情だけキリッとさせてニーチェの肩を叩く。
「高杉さんはもう二度とハンドルに手を触れないでください! 二度とです!」
「ワシもできることならそうしたいんじゃが、天の采配ちゅうもんはどう転ぶかわからん」
「いいから押してください!」
ぬかるみにタイヤを捕られて自動車はスタックしていた。
最も体重の軽いニーチェが運転席に乗り込み、高杉が横から、リストは後ろから自動車を押していた。
ぬかるみで滑ったタイヤが泥を跳ね上げ、その泥はすべてあますことなく天才音楽家フランツ・リストの身体にかかっていた。
「このフランツ・リスト、ここまでドッロドロになったのは初めてだ。だが気にするな。天才はたとえ泥をかぶっても天才だ! やはりこのフランツ・リスト、押し方の技術も超絶。もうひと押しだ」
どこの国に行っても美しく着飾り、美をそのまま音にしたような演奏をするようなリストが、今は泥だらけで力仕事をしている。
その姿にニーチェは不安と恐ろしさを感じた。
「こりゃ無理じゃな。人間諦めが肝心じゃ」
「その言葉は何度となく聞いてきた。『そのような演奏は人間には無理だ』とな。しかしこの私は毎回その言葉を跳ね返し、口にしたものを二度と顔が上げられぬまでケチョンケチョンにしてきた!」
リストはそう言うと、足を滑らせてぬかるみに頭から突っ込んだ。
そのまま起きがらず力なく呟く。
「このフランツ・リストは天才なのだ……」
ニーチェがリストと旅をするようになってから、音楽家としてリストが華々しく活躍した場面はなかった。
今でもヨーロッパ中でリストの名声は伝説的なものだ。
請われるままに演奏旅行をしていれば、そこで得られる名声は相当なものだろう。
なぜそこまでして天才音楽家であるリストがルサンチマンを倒そうと奔走しなければならないのか。
考えを馳せてみるが、ニーチェは自分自身の責任でもあるような気がして心苦しくなる。
高杉がニーチェに耳打ちする。
「おい、ニィちゃん。ここは一発派手にリストの旦那を褒めてやれ」
「ボクが褒めてもしょうがないでしょ。若い女性じゃないんだから」
「わかっとらんのぉ。リストの旦那は世界中の誰よりもニィちゃんに褒められたいんじゃ。そやから良いとこ見せようと細腕で力仕事もしとんじゃないかい」
「高杉さんはフランツ・リストという巨人を知らないからそんなことが言えるんです。本来ならボクなんかがまともに口をきけるような相手じゃないんですよ?」
「嫌いなんか、リストの旦那を」
「嫌いなわけないじゃないですか! ただ、あのですね。そう簡単にはいかないんですよ」
「簡単じゃろ。褒めりゃいいんじゃ」
「それが難しいんですよ。最初の出会いのところでちょっとミスっちゃって。強がって別に好きじゃないですって感じにしちゃったんですよ。だから急に今そんな風に言っても、だったらあの時のはなんだったんだってなるじゃないですか」
「そんな昔のこと多分覚えとらんぞ」
「覚えてますよ。2秒前のことも覚えてない高杉さんと一緒にしないでください」
そこに森の木々をかき分けて馬に乗った人物が向かってきた。
木漏れ日に映し出される大きな帽子の細いシルエット。
馬上の人物は女性であり、近づくほどにそのしなやかな姿が
美しい。
思わずニーチェは思考が止まり汗ばんでしまう。
「どえらい
高杉が無遠慮にそう言ったが、ニーチェは同意する余裕すらなく馬上の麗人に釘付けになっていた。
「お困りのようね。力になってあげてもよろしくてよ」
女性は、梢が生み出す葉擦れの音に一本のまっすぐな切れ目を入れたような通る声でそう言った。
大きな帽子のレースがその白い肌に影を落とす。
森の中という自然の造形物のど真ん中に突然現れた人工的な美の象徴。
どこを見ても、切り取られた絵画の人物のように目を奪う。
「ほりゃ助かるのぉ、リストの旦那。どうすりゃええんじゃ?」
「やめろ。その女からは危険な匂いがする。この私はありとあらゆる女性を見てきた。その中でも抜群に危険だ」
「あら、ひどい言われようね」
「無礼を承知で言う。ただちにこのフランツ・リストの前から立ち去っていただきたい。さもなくば――」
フランツ・リストは大きく息を吐き強い決意の視線で彼女を見据えて言った。
「――好きになってしまう!」
リストの言ってることを理解するのにニーチェはしばらく時間がかかった。
「何をバカなこと言ってるんですか、リストさん。どうせだからキャーキャー言ってもらえるように頼んだ方が良いんじゃないですか?」
「嬌声は強制するものではない!」
「高杉さん、なんとか言ってくださいよ」
ニーチェは高杉にそう告げたが、彼は目を細めてこちらを睨み返す。
「ニィちゃん。なんで自分で頼まんのじゃ? おぬしぁさっきからあの美女に目ひとつあわせんしのぉ。おなごが苦手なんか?」
「そ、そんなこと今言ってる場合じゃないでしょ」
「今はそのこと以外聞きたぁないな。たとえこの世の終わりと言われても、わしゃそのこと以外聞くつもりはないぞ」
ニーチェが歯を食いしばって次の句を告げられずに固まっていると、その女性が金管楽器のような声を立てて笑った。
馬上では邪魔になるのかまとめていた髪をほどき帽子をとる。
長く黒くウェーブのかかった髪が広がる。
それはまるで世界が幸福の薄衣によって包み込まれるような支配力を持っていた。
「面白い方たち。なにか私に頼みがあるんじゃなくて?」
「ない!」
リストは顔の泥を拭って背筋を伸ばしてそう言い放った。
女性は一瞬だけ微笑むとじっとリストを馬上から見下ろす。
「知っている? 人の顔には相が現れるの。どんな人か、何を考えているか、そして何を求めるか。顔を見ればわかるのよ。あなたは天才と
「きっつぃのぉ。じゃじゃ馬娘かと思ったら魔女じゃ」
高杉がそう哄笑すると、女性は鋭い視線を高杉に向けた。
「東洋の人。あなたはこの世を嫌い、不真面目に振る舞わずにはいられない男ね」
高杉の笑いが固まり、顔が歪む。
女性は流れるようにニーチェを見た。
思わず顔を背けてしまう。
「あなたは、何者でもない自分が不安で背伸びをし続ける男ってところかしら」
「あなたに何がわかるんですか!」
「ムキになるほど当たってるってことね。さぁ、私になにか頼みがあるんじゃなくて?」
「面白れーおなごじゃの、リストの旦那」
リストは大きく息を吐き胸を張った。
「何を言っても無駄なようだな。名はなんと言う?」
「スキットルズ。人はそう呼ぶわ。それ以上のことを知りたければ、それ相応の代償が必要ね」
リストが手を差し出し、スキットルズはその手を取って馬から降りた。
ニーチェはリストの顔を伺いながら尋ねた。
「リストさん、ちょっと好きになっちゃってるんじゃないですか?」
「それもよかろう」
「よかないですよ!」
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