第7話 問題は鍵の複雑さではなく、扉を開ける用をなすかどうかだ

前回までのあらすじ


 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトへの点数稼ぎのためにスネル兄弟から吊るし上げられたニーチェとリストを救ったのは、東狂を名乗る男、高杉晋作だった。

 高杉は奇妙な屁理屈ととらえどころのない東洋の技でスネル兄弟を撃退する。

 騒ぎを聞きつけた港の屈強な男たちが捕らえにくるが、三人は停泊していた船を強奪して逃走。

 しかし操船技術のないまま進んだ船はあえなく座礁する。

 三人は泳いで岸までたどり着き、からくも生き延びた。






 高杉は一枚の布でできている服をねじって絞る。

 小柄であるが細身で締まった身体は大人の男のものであった。


 ニーチェの少年の影を引きずる貧相な身体つきとは大分違う。


 東洋人は年齢がまったく見当がつかないが、少なくともニーチェより年上だろう。

 20歳かそのくらいの若い青年と思われる。


 布を巻き付けた下着という、神話の時代からやってきたような格好のまま高杉は言う。


「シーボルトの御仁はいい方らしいぞ。影響力があるっちゅうのも問題じゃ。周りが勝手にやりすぎることもある。つまらんことじゃ、忘れろ忘れろ」

「これほどの屈辱忘れられるか! このフランツ・リスト、ここまでビショビショになったのは初めてだ」

「でかいのぉ。玄瑞げんずいと同じくらいあるんじゃないか? 日本には『水も滴るいい男』っちゅう言葉もある。あんたにピッタリじゃぁないか。フランツの旦那」

「馴れ馴れしい奴め。リストさんと呼べ」


 フリードリッヒ・ニーチェは服を絞りながらリストと高杉のやりとりを見ていた。


 リストの洒落者らしい服装とは異なり、高杉の服は服と呼ぶのも怪しい一枚の布だけ。

 縫製も簡易で、これまた大雑把な布製のベルトで締め上げている。

 しかしそれが不思議と様になっている。

 自分たちの国とは異なる文化があり、彼の装いもまたそこでは洒落者なのかも知れない。


 それよりも彼が淀みなく、皮肉すら交えて話していることに驚く。


「高杉さん」

「東狂だ。ニィちゃん」

「ニーチェです、高杉さん。最近この国に来たようなことを言ってましたが、日本はドイツ語で話すのですか?」

「ワシャ天才じゃからの。港で生活してりゃ世界の言葉なんぞすぐ覚える」


「キミが天才だと? 教えてあげよう、天才とはこのフランツ・リストを指す言葉だ」


 リストが高杉に臭いものでも見るような目を向ける。


「物事ってのは渦中が一番濃密なんじゃ。どんなことでも、覚えたい、知りたい、変えたいっちゅぅ時は渦中に飛び込むのが一番。そんためにゃ、その国の言葉で3つ覚えとけばええ」

「3つの言葉?」


 高杉は指を立てながら言った。

「素晴らしいアイデアを思いついた」

「俺はやめろと言ったんだけど」

「犯人探しよりもやるべきことがあるだろ」


 高杉は満足げな表情でこちらを見る。


 なんて身勝手な発想だろうか。

 しかしあの状況から逃げ延びれたのは高杉の無軌道な行動あってのことだ。


 そんな事を考えているとニーチェたちの前に、あの少年。

 ハインリヒ・シーボルトが駆け寄ってきた。


「いた~! いたぞぉ~!」


 ハインリヒは声変わりをしていない甲高い声で叫ぶ。

 日も落ちかけ辺りは暗くなっていた。

 ゆっくりとランプの明かりが集まってきた。


 港湾で働く男たちかと思いきや、そうではなかった。

 ランプを揺らしながらゆっくりと近づく者は虚ろな目をした畜群たちだった。


「まずいぞ。このフランツ・リスト、今は超人になれない。超人になるにはトリガーが必要なのだ」

「なんじゃ? その超人ってのは」


 高杉が尋ねるとリストは無視をしてニーチェに向かって言った。


「このフランツ・リストのトリガーは、女性の黄色い声だ」

「え……。女性ですか?」

「キャーキャー言われもしないのに、超人になどなれるわけがない!」


 ニーチェはリストの口から出たあまりにもしょうもない理由に唖然とした。


 そうしているうちにも畜群はハインリヒに襲いかかる。

 畜群は女性をさらうという話だったが、女性以外の人間に対してはただ邪魔者を排除するかのような暴力性をあらわにしていた。


「坊っちゃん、こっちだ。ここはワシに任せぇ!」


 勢いよく飛び出したのは高杉だった。


 ロープを振り回し、畜群たちの間を割って入る。

 ハインリヒを抱き上げて、ロープを木に投げつけて飛び去ろうとした。


 しかしロープは畜群の手に当たり跳ね返ると、高杉の足に巻きつき縛り上げた。

 おまけに畜群の持っていたランプが割れ、火の手が上がった。


 こんな一瞬にして、状況をとんでもなく悪化させるとは、ある意味恐ろしい男。


「ヒィ~! たすけてぇ~!」


 ハインリヒが泣き声を上げる。


 彼のいたずらには痛い目をみせられた。

 しかしニーチェはそれがそんなに嫌ではなかった。


 相手にして欲しくて、構って欲しくて、相手の視線を奪いたくて、自分でも正しくないとわかっていながらもやりすぎた行動に出てしまう。


 ニーチェの脳裏には幼くして亡くなった弟の姿が浮かび上がった。


 この世の喜びも苦しみも知ることのないまま去っていった弟。

 その喪失感は常にニーチェの傍らにあった。


 同時に、そこには怒りもあったのだ。

 悲しみに暮れ、人生の歩を進めることを留まってしまう自分自身への怒り。


 弟の死は理不尽だ。

 しかしそれをなかったことにするのも、忘れることもできない。

 人はその悲劇を背負って、なおも生きていく光を見なくてはいけない。


「女の黄色い声さえあれば! 老婆でもいい、赤ん坊でもいい! この私に嬌声を浴びせてくれ!」


 リストはピアノの前にいる時の威厳を全部ドブに沈めたような声を上げる。


 この滑稽な状況全てを受け入れ、それでも立ち向かわなければいけないのだ。


「ニィちゃん! これが渦中っちゅうもんじゃ!」


 勝手にロープで巻かれて炎に包まれそうになっている高杉は自棄になったように叫んだ。


 ニーチェの身体の奥から熱い光を飲み込んだような力が湧き出てくる。

 その力に、誘われるままに唱える。


!」


 瞬間、ニーチェの身体が四方に飛び散るような衝撃と、今まで感じたことのない開放感を覚えた。


 リストが震えながら声を上げた。


「それだ、フリッツ。それが超人だ!」

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