第5話 苦痛の中では欲こそが希望となりうる

前回までのあらすじ


 母親に妹を託して旅に出たフリードリッヒ・ニーチェとフランツ・リスト。

 謎の人物ルサンチマンの情報を集めるために、情報の集積所である貿易港に二人はたどり着いた。

 そこで出会った生意気な少年ハインリヒにいたずらをされるも、ニーチェの機転によりピンチをま逃れる。

 ハインリヒにお仕置きをして情報を集めていたニーチェとリストだが、いきなり港で働く荒くれ者たちに捕縛される。

 ハインリヒの父親は貿易を仕切る有力者フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトだった。






「俺はヘンリー」

「俺はエド」

「いつか二人で世界を買い占める。スネル兄弟とは俺たちのことだ」


 痩せた男が兄のヘンリー、太った男が弟のエドらしく、二人はニーチェとリストをなめるように品定めする。

 まだ若く、浅黒く日に焼けていて、この港湾で下働きをしているようだ。


 ニーチェは後ろ手に縛られ、自由の効かない身体で言い返した。


「ボクらには正当な言い分がある! あの子供はボクらの大切にしていた写真を盗み取り、さらに海に突き落とそうとしたんです!」


「聞こえねぇな。おい、エドなんか言ったか?」

「言い分があるんだってよ。兄貴」

「それはわかってる! わかってるけど、聞こえねぇって言うんだよ」

「なんで? 耳に水でも入ったか?」

「エド、そういうものなんだ。次からは覚えておけ」


 後ろ手に縛られていたフランツ・リストが悠然と立ち上がった。


「この私がフランツ・リストだということは知っているだろう? どのような立場の人物であるかも」

「知ってるさ。俺たちゃな、ここで毎日汗水たらして働いてるんだ。生きるためにな。わかるか? 俺たちの一番嫌いなものはあんたみたいな綺麗な服を着て、荷物の一つも運ばずに愛想を振りまくだけで美味いものを食ってる連中なんだよ」


「シーボルト卿に会わせたまえ」

「残念ながらシーボルトさんは日本にお出かけ中だ。まぁ、会ったところでどうにもならんと思うぞ。シーボルトさんは気合の入った冒険家だ。あんたは社交界でくだらない女の尻ばかりを追いかけているんだろ? シーボルトさんが一番嫌うタイプだ。安心しろ。ちゃぁんと俺たちの手柄は報告してやるから」

「兄貴、それは俺がやりたい」

「しょうがねぇな。特別だぞ、エド」


 リストは大きく胸を張り、よく通る声で言った。


「女の尻がくだらんだと? 女の尻より良いものなど、この世には音楽しかない!」


「リストさん、反論の方向性がとっ散らかってます!」


 思わずニーチェは声を上げたが、縛っていた縄が食い込み痛みで顔がゆがむ。

 こんな状態で立ち上がって意見を言うとは、リストの精神力の強さに恐れ入る。

 しかも、その痛みに耐えてまでして訴えたいことが女の尻でいいのか。


 ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべながらヘンリーはリストの足に縄を結びつけた。

 エドもニーチェの足を縄で結んで柱に引っ掛ける。


「確かにハインリヒのクソガキはむかつくが、俺たちゃシーボルトさんに尽くして黄金の国に連れてってもらわなきゃならない。あんたらはここで日に焼かれて干物になるといい」

「干物は美味しいもんな、兄貴」

「後でな。後でちゃんと食わせてやるから。もうちょっと我慢しろ、エド」


 スネル兄弟はテコの原理で縄を引っ張る。


 リストとニーチェは引かれるままに柱に逆さ吊りにされた。


「金なら払おう。お前たちの100日分の賃金を出す」

「わかってねぇようだな。そうやって指一つ動かさずに人をどうこうできると思ってることが俺にゃ許せねぇんだよ!」

「でも兄貴、100日分の賃金だって」

「金の問題じゃねぇ! これは魂の問題なんだ」


 リストに向かって唾を吐くスネル兄弟を見てニーチェは我慢ならなかった。


「こんな復讐で満たされるなんて、随分と安い魂ですね」

「なんだと?」

「そうやってうらやんでる人間をいたぶることで小さく欲望を満たして生きるだなんて、まったくの小者だと言うんです。自らのくだらない感情に翻弄され目の前の快楽に溺れるなんて卑しい人間だ。ボクの足を縛るこの縄は実直に仕事をしボクを苦しめ、やがて考えを変えるかも知れない。しかしあなたのような小者の歪んだ思いなど、ボクの思想に一片の傷もつけやしない。あなたはこの縄以下だ!」


 ニーチェは自分の口から吐き出した言葉に違和感を感じていた。

 もちろん誰に言わされたわけでもない自分自身の言葉である。

 しかし、その発言の根本にはリストにいいところを見せたいという願望があった。


 二人で旅をしてからずっとそうだった。

 リストに評価されたい、リストに落胆されたくない。

 その気持ちが先走り、本来のニーチェとはズレた言動を繰り返している。


 誰に強制されたわけでもない、自ら自由を手放したのだ。


 その思いは、物理的にニーチェを縛り付ける縄よりもよほど厄介だった。


「このガキ……ッ!」


 ヘンリーが逆さになったニーチェの腹を蹴り飛ばす。


 ニーチェは振り子のように揺れ、戻ってきたところを今度はエドが殴りつけた。


「やめたまえ! 憎いのはこのフランツ・リストだろ。100と半日分の金を出そう、それでこの少年を開放してやってくれ」

「兄貴ぃ、100と半日分だってぇ」

「か、金の問題じゃねぇって言ってるだろ」

「でも100と半日分……」


 太ったエドは情けない声を出してニーチェを殴るのをやめた。


「リストさん! どうせ増額するなら微妙に刻まないで、もっと一気にいったほうがよくないですか!?」

「ええい、101日分! それでこの私が、すべて引き受けよう」


 スネル兄弟が顔を赤くしてリストに迫った時。

 その背後からフラフラと怪しい足取りの男が近づいてきた。


「三千世界の鴉が暴れちょるのぅ」


 スネル兄弟が振り返る。


「お前は! 日本から来た……」

「酔っ払ってプロイセンに帰国する船に迷い込んで気がついたら連れてこられちゃったという頭の悪い男! シンシャク!」

「シンシャク・タカシュギ!」


 男は一枚の布でできたような奇妙な服を着て、異常に長いナイフでニーチェとリストに繋がっている縄を切った。


「無理して発音せんでええ。東狂先生と呼べ!」


「チョーヂョー……」

「シェンシェ……」


「余計に言えとらんのぉ」

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