第3話 真に醜悪なものは、過ちであることに気づかぬ振りをする自らの魂である
フランツ・リストは立ち上がってフロックコートを翻す。
「共に旅をするからには、フランツと呼ぶことを許そう。フリッツ」
「リストさん。海には何をしに? ルサンチマンの手がかりがあるのですか?」
「そのようなものは一切ない! フランツと呼んで構わないぞ」
「リストさん、なにを?」
リストはニーチェが練習をしているピアノの前に座ると、腕を大きく振りかぶり鍵盤を叩いた。
身長も高いが腕も長い。
おまけに指まで長いために、ニーチェが普段弾いているピアノが小さく見える。
さらにリストは腕を振りかぶり勢いよく鍵盤に叩きつける。
決してうるさいだけではない、音が部屋中に響き渡り、空間のすべてが音楽で満たされる。
繊細な音はこれ以上ないほどに儚く、ニーチェが知っているピアノの音とはまるで違っていた。
ニーチェは奥歯を噛み、拳を握り締めて涙があふれるのを我慢していた。
先程の自分の演奏が恥ずかしくて悔しくてたまらなかった。
自分ではなかなかの出来栄えだと思っていたが、そういうものとは次元が違う。
こんな演奏をするリストに対して、よくもあんなものを聞かせられたものだ。
リストは曲を弾ききり、立ち上がってニーチェの方を向くと鮮やかに礼をした。
ニーチェが打ちのめされているのをリストもわかっているだろう。
むしろ、わかっているからこそ自ら弾いたのだ。
思い上がっていたニーチェに、その浅はかさを思い知るようにと。
身体に力が入らない。
ニーチェは絞り出すように言った。
「あの、リストさん。ハチャメチャに壊れちゃってますけど」
ピアノは途中で弦が数本切れ、鍵盤が弾け飛んでいた。
「ふむ。あまりの超絶技巧にピアノの方が音を上げてしまったようだ。これでいい。このフランツ・リストがぶっ壊したピアノということで遥かに値打ちのあるものになったはずだ。当座の生活は問題ないくらいにな」
「そういうものなのですか?」
心が萎れきったニーチェに対してリストはたしなめるわけでもなく、爽やかな笑顔を見せた。
完敗だった。
世界が天才と認める人物の巨大さに、目が眩むほどだった。
ニーチェの生きる狭い世界の中では、自分は怪物だった。
愚鈍な人間たちとは思考も時間も力も、あらゆるものが違っていると思っていた。
しかし打ちのめされるばかりではいられない。
確かにリストは遥かな高みにいる。
そのことに気づけたニーチェの視野をひとまずは受け止めるべきだ。
世の中には自らの愚かさに気づかぬものたちで溢れている。
それに比べればニーチェは間違いなく人とは違う輝きを持っているはずなのだ。
「フリッツ、旅はいつ終わるかわからない。ひょっとしたら途中で不幸な出来事にあうかもしれない。女に振られたり、悪い女に引っかかったり、二人の女が愛を求めて傷つけ合うかもしれない」
「それは寄り道をし過ぎでは?」
傷心のニーチェを気遣ったのか、リストは真面目な顔で冗談のようなことを言う。
「何がおこるかわからない危険な旅だ。遠慮せずこの私を頼るがいい。本来ならばありえないことだが、フランツと呼ぶことを特別に許してやろう」
「なぜこのボクにそこまでしてくれるのですか? リストさん」
「理屈を求めるな。理屈の先には予定調和の退屈しかない」
リストはそう言って歩き出した。
「いや、だから違います。こっちですって。ボクは理屈のないことは許せないのですけど」
ニーチェは小走りで追いかけながら尋ねる。
リストはフロックコートを大きく翻して振り返った。
「譜面通り弾くことなど、このフランツ・リストにかかれば容易なことだ。しかしそれでは面白くない。客も喜ばないだろう。心の底から楽しむのなら、アドリブだ!」
「いやいや、演奏はそれでいいかもしれませんが、アドリブしすぎたせいで迷ったんじゃないですか?」
「それもよかろう」
「よくないですよ。海までだいぶあるんですよ。こっちです、ついてきてください」
「このフランツ・リスト、譜面通り弾くのは一度だけだぞ」
リストが真面目な顔で語る冗談のような言葉。
ひょっとしたらそれは冗談ではないのではないか、とニーチェの心に一抹の疑惑が生まれていた。
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