『サブテキストで書く脚本術 映画の行間には何が潜んでいるのか』1章 サブテキスト
『サブテキストで書く脚本術 映画の行間には何が潜んでいるのか』
リンダ・シーガー=著
1章 サブテキスト
上演(ドラマ)の中では、他のどんな芸術形式にも増して、人は意図していることを口にしない。必ずしも嘘をついているというわけではない。必ずしも真実を誤魔化しているわけでも、否定しているわけでもない。登場人物たちが、自分は真実を語っているのだと思い込んでいることもある。真実を知らないこともある。真実を表明するのは居心地が悪いと感じていることもある。すぐれたドラマには、言葉そのものと、言葉の表面下にある真実とが存在する。テキストとサブテキストが存在するのだ。それら二つは同じものではない。同じであるべきものでもない。
サブテキストとは何か
テキストとは私たちが目にする言葉と身振りである。それが別の意味を示唆していることもあるし、ただそのままのことを言っている場合もある。こう尋ねたとしよう――「サンフランシスコからシカゴまで、どうやって行けばいいでしょう」。きわめて明快な、サブテキストを伴わない答えが返ってくるかもしれない。「80号線イーストを進んで、それからシカゴまで来たらミシガン・アヴェニューで降りてください。シカゴの中心街に出られますよ」。そこには表面にあらわれていない意味などない。親切で、率直な答えだ。
だが、もし質問を向けた相手がチャラチャラした金髪の女性で、彼女がウィンクしながらこう答えたとしたらどうだろう。「ここに楽しいコトがたっぷり待ち構えてるってのに、なんでシカゴなんかに行きたいわけ⁉」それがストレートな答えでないことが、私たちにはわかるだろう。表面の下に潜ると、別の多くの意味が横たわっている。彼女は一時のお楽しみを期待させようとしている。別の目的を持っているのだ。その真意を掴んだならば、「いや結構」と答えるか、あるいはしばらくそこに留まろうと決心するだろう。
日常生活の中で、私たちは常にサブテキストに遭遇している。誰もが、いつでも意図していることをそのまま言いはしない、という習慣を持っているのだ。あるいはサブテキストを口に出すのは良い振る舞いではないか、礼儀正しさに欠けるか、認められないことだと感じ、上からテキストを覆い被せて、本当の意味は表面の奥底で煮えたぎらせているという場合もある。時には相手に本当の意味を理解して欲しいと望む。時にはそうして欲しくないと望む。
『三つ数えろ』(ウィリアム・フォークナー、リイ・ブラケット、ジュールス・ファースマン、46)の中では、ほとんどの女性登場人物たちがフイリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガート)を誘惑する。彼女たちは仄めかしたり、暗示したり、示唆したりする。女性タクシー運転手さえもマーロウを目的地に連れていくことに加えて、別の意図を持っているのだ。マーロウを降ろした後で、彼女は名刺を差し出しながら、同時にセリフを通してサブテキストを伝達する。
タクシー運転手
いつかまた私を使ってくれるんなら、この番号に電話して。
マーロウ
昼に? それとも夜?
タクシー運転手
夜の方がいいわ。昼間は働いてるから。
彼女が名刺を渡したのが、次にタクシーを使ってもらうためでないことは明白だ。サンフランシスコの可愛くて軽薄な女性と同じく、彼女も別の目的を心に抱いている。
サブテキストとは、言葉と行動の表面から奥へと潜っていったところで煮えたぎっている真の意味である。リアルで純粋な真実である。テキストは氷山の一角だが、サブテキストはその奥にあるすべてであり、ふつふつと煮え立つことで、テキストに情報を付与している。それは明白な意味ではなく、潜在的な意味である。偉大な脚本、偉大なドラマは地下にあるのだ。サブテキストは他の意味を指し示す。私たちが耳にする言葉は、私たちを別のレイヤーへ導くように意図されている。テキストとサブテキストとのこの交差点には、衝突が存在する。偉大なドラマは言葉の下に宿っている。
作家がわかりきった対話を書くと、それでは「そのまんま」だと言われてしまう。登場人物たちが意図したことそのものを、きちんと論理的な文で話す。退屈である。刺激が足りない。まるで講義か、教会の説教か、論文かレジュメのように聞こえる。対話が感情の込もった活き活きしたものにならない。言葉が多様な意味と響き合っていない。それどころか、登場人物たちは情報を伝え、背景や概要についてうんぬんし、重要でない物事に対してコメントする。おしゃべりを繰り返し、また繰り返す。
あるいは、こんな場面を思い描いてみてほしい。二人の登場人物たちが出会い、明らかに互いに惹かれ合っている。互いの魅力について、自分たちの将来への希望について、二人は語り合う。すべてが明け透けになっている。あらゆることが表出していて、現実の人生に生じるような、いかなる不確かさも微妙さも存在しない。
あらゆることがテキストに書かれてしまっている時、そのあらゆることは行間に存在するのではなく――すぐれた脚本であればそうあるべきだ――行そのものに存在する。すべてがそこにある。だが、そこに欠けていることこそが重要な部分なのである――それは、重層的な意味と響き合う、動機や思考、感情や人間的真実だ。
『パパ』(ルイス・ジョン・カルリーノ、ハーマン・ラウチャー、79、原作はパット・コンロイによる小説)では、母親が息子に対して実に多くの言葉を割いて、サブテキストを理解することの重要性を説明する。「あの人[父親]が発するシグナルを解釈する術を学ばなきゃならないのよ」。
脚本家がやり方を学ばなければならないのはそれなのである。すなわち、目に映るもの以上のことが進行しているのだと観客に理解できるように、サブテキストを書かなければならないのだ。脚本家は方向を指し示す。暗示的な言葉を選び、隠されたものを表出させる行動を描き、観客が会話のセリフ自体からそもそも受け取れるはずの情報より、はるかに多くのものを理解させるのである。
サブテキストの存在をどうやって知るのか
サブテキストとは、はっきりと言葉にされてはいないが、底流にある、あらゆる意味のことだ。それこそが実際に進行していることなのである。実際に映画が描いているものなのである。この本ではサブテキストにきわめて広い定義を用いる。なぜなら底流にあるものとは、単に言葉の裏にあるものとは限らないからだ。サブテキストは言葉の裏側にも、身振りの裏側にも、行動の裏側にも、画面の裏側にも見出すことができるものなのだ。
サブテキストはふつう、明確に指摘することのできないものである。それは感じ取られるものである。人はそれを五感で受け取る。不確かさの感覚を抱くこと、確認したくなるような疑問を持つことで、私たちは自分がサブテキストに直面しているのだとわかる。不思議に思った時こそ、サブテキストに直面しているのだ。「あれ、なんか変だ。あの人、ほんとはどういうつもりだったの?」あるいは、こう考える。「うん、そうだな、一言だって信用ならないぞ!」あるいは、気掛かりを感じ取って、こう思う。「見た目以上のことが起きている。この人、何を企んでるのかな。それになんでこんなことをしてるの?」
監督指導者、演技指導者であるジュディス・ウェストンは著書『The Film Director’s Intuition (映画監督の直観)』の中で次のように説明している。
言語とは私たちが言葉によって話す内容であり、サブテキストとは私たちが本当に話している内容です。そこには身体言語(ボディランゲージ)、声のトーン、目つきや表情が伴われます。サブテキストは私たちの本当の感情を表現するのです――たとえば、世問話や義務的な礼儀正しさの水面下にあるイライラや嫌悪感といった感情。サブテキストは感情の履歴であり、意図であり、メタファーであり、場面の中心にある感情的な出来事なのです。
サブテキストは深みを加えるのだ。「サブテキストがなければ、映画は表面的なものになってしまいかねません」とジュディスは述べている。
サブテキストを表現する
サブテキストを表現する方法はいくつもある。テキストにひとつのことを言わせて、サブテキストでそれとは反対のことを表すこともできるだろう。友人に「大丈夫?」と尋ねて、こんな答えが返ってきたとする。「ああ、大丈夫だとも、絶好調だよ」。そのとき彼は、荷物をまとめてオフィスを去ろうとしている。つい今しがた会社をクビになったのだ。実際の状況を理解 しているならば、サブテキストはおわかりだろう。彼は言っ ていることと反対のことを伝えようとしているのである。
サブテキストに何重もの意味を暗示させて、いくつもの解釈があり得るように仕向けることもある。ある人に、「あたし、おさらばするわ。こんなのもう我慢できない」と言われたとする。すると、疑問が浮かんでくる。彼女は週末をオフにするの? ただ出掛けるだけ? それとも自殺するつもり? それに、我慢できない『こんなの』ってなんのこと? どんなひどいことなのかしら。その行動に出るのは、夫にフラれたっていう事実と関係あるの? それとも二人が破産したから? 息子がヤク中だったから? こうして、すべての関連する事実や可能性や解釈について考え始めることになる。何が起きているのか確信することはできないが、何かが起きていることはたしかにわかる。そして、サブテキストが存在することがわかったら、その危険を感知して友人にいくつか質問してみようと思うかもしれない。場合によっては、彼女は独りじゃないのだと気付かせるために、週末のあいだ彼女と一緒に過ごすことになるかもしれない。銃を手にしてはいけないと彼女に伝えることになるかもしれない。
たとえサブテキストの存在を認識しても、その真の意味は特定の登場人物だけにわかるものであって、他の誰にもわからないかもしれない。その登場人物の秘密であり、 自分だけが理解しているささいな問題や傷であって、他人には知られたくない場合もある。
あるいは、そのサブテキストは登場人物本人にさえ見えずに、無意識の奥底にあって、その人物の行動や感情や選択に影響を及ぼしているかもしれない。時としてサブテキストは脚本家にも見えていないことがあり、書きながらそれを見つけていくことになる。そうして最終的に、観客は誰にも直接説明されることなく、真実を知り、感じ取り、あるいは意識することになるのである。
サブテキストは単に言葉の表面下にある意味ではなく、会話や画面に持ち込まれたつながりでもある。作家として、それらがもっともよく響き合うように、会話と描写の両方に使う言葉を考えなければならない。しかし同時に、会話におけるセリフだけでなく、行動や感情や身振りや視覚的イメージも考慮しなければならない。タ日はロマンスとのつながりを喚起するかもしれない。夜の闇が近づくことで、物事の終わりとのつながりを喚起するかもしれない。あり得たかもしれない出来事へのノスタルジアとのつながりを思い起こさせるかもしれないし、ロマンチックな夜に秘密裏に始まる新たな出来事の可能性とのつながりを喚起するかもしれない。そのイメージに対してあまりに多くのつながりを持ち込めるために、夕日はクリシェになってしまった。映画の中で私たちはあまりに多くの夕日を見てきた。映画一本に一度は夕日が出てこざるをえないし、私たちはたいていそれが意味することすべてを知っている。すっかり使い古された、退屈なサブテキストだ。だがそれでも、単に見たままの価値として受け取れないのだから、夕日はサブテキスト的である。それが一日の終わりという以上の実に多くの意味を持っているということを、私たちは知っているのだから。
いつでも、サブテキストによって、私たちは何かより多くのことが起きていることを知る。 「何か」は口に出されない――その何かこそが、うまく描かれている時には、最良のドラマなのである。
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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