東洋の魔女

邑楽 じゅん

序章:東洋の魔女 第一話

 少年は目の前の光景に驚き、ただ茫然と視線を彷徨わせていた。

 薄暗い室内。

 偶然に手に入れた書物は、突如として白煙を上げた。

 開かれた紙面から放たれる光は、未来を明るく照らす神々しい慈愛の温もりか。

 それとも、所有者を地獄へと堕とす禍々しい悪魔の息吹なのか。

 魔女と契約を交わせるという、禁断の書。

 黒の厚い革の表紙に対して、白が際立つ中央のページには魔法陣が描かれている。

 その魔法陣から、徐々に人の姿が現れてきた。

 まさに、いま魔女が降臨しようとしている。

 


 雲ひとつない四月の朝。

 目覚まし時計は毎朝の自身の役割を果たし、とうに鳴り終えていた。

 少年はすっかり寝坊をしてしまい、慌てて身支度をしている。

 ここ、榊原さかきばら家では毎度の光景だ。

 高校二年に進学し、この春からの新しいクラスメイトや環境にも慣れてきて、学園生活も落ち着いてきた。

 そんな気の緩みから、夜更かしをしてしまった結果だ。

 といっても、彼が夜はダラダラと遅くまで過ごすのは日課みたいなものだが。

 急いでネクタイをしめてブレザーに袖を通し、玄関に向かう。

「いってきます!」

 慌てて靴に足を入れて、外へ飛び出る。

 玄関先では、同じ学校の制服を着た少女が待っていた。

「遅いよ、洋一よういち。また寝坊したんでしょ」

「うっさいよ。それなら亜耶あやも待ってないで先に行きゃいいじゃん」

 洋一少年の幼馴染、三枝さえぐさ亜耶。

 彼女とは物心のつく頃から交流があり、互いの家も数軒となりのご近所でもある。

「ちょっと、これじゃホントに遅刻しちゃうよ。駅までダッシュね」

 そう言って亜耶が駆け出すと、首元で切り揃えたショートヘアの髪が揺れた。

 一方、朝食をろくに食べられなかった洋一は、弱々しく追いかけていく。

 駅に到着した頃には、彼は大きく肩で息をするくらいに呼吸を乱していた。

「洋一は勉強はそこそこできるんだから、もっと運動した方がいいね」

「僕はインドア派だよ。別に進路がスポーツ選手ってわけでもないんだから、運動音痴で将来が困ることはないんだって。むしろ理系の研究職を目指すなら、動かないで耐える努力ってのも大事なんだよ」

 中心街へ向かう満員電車とは反対のホームで列車を待つ間も、息を整えながら通学カバンの中を漁るが、せわしなく右手を動かしていた洋一は大きな溜息をついた。

「あぁ、母さんが用意してくれた水筒をテーブルに置いてきちゃったよ……」

「じゃあ、特別にあたしのものを分けてあげるよ。感謝しなさい」

 亜耶が自分の水筒から飲料を注いで、手渡す。

「粉のスポーツドリンクか……僕はお茶派なんだけど」

「インドア派だのお茶派だのって、洋一ってあたしには文句ばっかり言うよね。いらないならあげないよ?」

「すみません、ごめんなさい、ください」

 洋一は、彼女の前ではつい軽口を叩いてしまう自分を反省した。

 付き合いが長いせいか、亜耶には余計なことばかり言ってしまうが、それも照れ隠しで、実際はもっとも身近にいる異性として、彼も意識をしないわけではない。

 洋一とは性格が真逆の亜耶は、勉強はそこそこだがスポーツが得意で、陸上部で短距離走をしている。

 いつもあっけらかんとして深く悩まない性格の亜耶は、運動よりは勉強を得意として、内気で何事にも及び腰な洋一とは対照的であった。

 それゆえ、手っ取り早く亜耶と深い仲になるなど、夢のまた夢だった。

「そういえば、今日はレポート提出だったじゃない? あれ終わった?」

「当たり前だよ、勉強だけは得意だし、ほらこの通り……」

 ところが、カバンの中に入れたはずのレポートも見当たらない。

「マジか……これも机の上に置き忘れてきたのかな」

「勉強ができても、夜更かしで寝坊すると人生を損するんじゃない?」

「ヤバいヤバい……写させてください!」

 洋一は移動の電車の中や、ホームルームの間もこっそりと書写をしていたが結局、提出時間までには間に合わなかった。

 やがて回収にやってきた学級委員が机の前に立つ。

 長い黒髪を一部分だけ後頭部で束ね、他の女子よりは少し長い膝上のスカート。

 レンズの小さな細身のフレームの眼鏡、その奥の瞳が鋭く光り、洋一の顔を見る。

「榊原くん、レポートはどうしたの? ホームルーム後にすぐ回収よ?」

「いや、有栖川ありすがわさん。やってきたんだけど家に忘れちゃったみたいで……嘘じゃないよ! 本当にちゃんとやったんだけどね……すみません」

「そうね、榊原くんは普段はちゃんと課題はやってくるものね。嘘かどうかは構わないわ。でも提出できなければ減点は一緒よ。次は気をつけた方がいいわね」

 そのまま次の生徒の机に向かっていく彼女を見送ると、洋一は大きく息を吐いた。

 学級委員の有栖川は成績も優秀、容姿も美麗にして、文武両道を地でゆく。

 クラスのみならず学年の男子からの羨望の的であるが、やや冷淡な性格のせいか、告白するには躊躇してしまう――無論、本当に告白して散ってしまった男子も多い。加えてその外見も相まって、陰で『氷の姫』とも呼ばれていた。


 休み時間、前に座っていた亜耶がくるりと背を回す。

 洋一と亜耶は同じ『サ行』で出席番号が前後ひとつ違いだ。

「有栖川さんにめちゃくちゃ睨まれてたね。あれであたしと同じ内容のレポートだったら、バレてもっと怒られてたんじゃない?」

「怖くて有栖川さんには嘘はつけないよ。忘れたって素直に言ったほうがいいよな」

「やっぱね、洋一はもう少し夜更かしを改善した方がいいよ。勉強はあたしよりできるのに朝バタバタするだけで損するの、もったいないもん」

 ばつが悪そうに頭を掻く洋一に、亜耶が手を叩く。

「ということで、あたしに勉強を教えてよ。次の数学は小テストだったでしょ?」

「どういうわけなんだか……まぁ、構わないけど」

 洋一は公式の説明をしながら、必死に教科書と向き合う亜耶の顔をちらと見る。

 こうして昔から変わらずに一緒にいる時間を、亜耶がどう感じているかはわからない。

 でも、いまだに近い距離感で接してくる幼馴染を見るに、彼女は自分を異性として認めてくれているのかどうかもわからず、心を揺らす洋一だった。


 放課後。

 亜耶は陸上部へと向かう支度をする。

「じゃあね。あたしは部活に行くからね」

「はいよ、レポートの件サンキューね」

 亜耶と別れた洋一はそのまま電算部に足を運んだ。

 パソコンやサーバーなどの通信機器だけでなくカメラやマイク、配信装置までが居並ぶ情報システム科の教室に入っていく。

 長期休暇の間の校長によるあいさつや、緊急時の全校向け注意喚起の配信、ほかに受験生やその親への広報素材の撮影と編集にくわえ、学内の放送部の機材も兼ねていた。

 部活動は、主にパソコンのプログラミングや各種ウェブツールの研修と技術習得をする……というのは体裁上の話で、インターネットを繋いではくだらないものを視聴したり、珍妙な作品を仕上げては怪しいサイトにアップロードをする、という程度のものだ。

 洋一は電算部の部員ではないが、互いに地味同士ということで波長のあった同学年の男子生徒に誘われて顔を出して以来、幽霊部員となった。といっても在籍だけして出席しない幽霊部員の逆なので、生き霊部員とも呼ばれている。いずれにせよインドア派を自称する彼には、非常に居心地のよいところであった。

「榊原氏、遅かったですな」

 学年がひとつ上である電算部の部長が声を掛ける。

 当然ながら、部員に女子はいない。

 地味な男子が集まっている中で、洋一は自分の地味さがかき消されるかのような、この特異な環境が好きだ。

 ただし洋一も含め、彼らは自分たちが極端に特異だと自負はしていない。

 仲間が集まれば会話に華が開き、興奮気味にちょっと早口になって、趣味や雑談を交わしていくだけ。

 単に、世の潮流に乗れていない男子の吹き溜まりとも言えるかもしれない。

「こんにちはっす。ちょっと教室で喋ってたもんで」

 部長は緊張感を湛えた芝居で、ぶ厚い眼鏡をくいっと持ち上げた。

「ははぁ、さすが余裕ですな、榊原氏は。なんせ三枝さんという幼馴染がいるチート属性ですからな。我々のような下賤な底辺にはわからない雲上のお方ですな」

 洋一は両手を振って、必死に否定する。

「僕と亜耶はそういうことじゃないですって……みなさんと同じですよ」

「妹以外の女子を呼び捨てなど、紳士の風上にもおけないですぞ!」

「女きょうだいすらいない者らの身にもなれ! この画面の先にいる嫁しか……」

 途端に洋一は、電算部の男子から一斉に非難を浴びる。

「榊原氏はいつも一緒に登校しているね? 文房具や教科書を貸したり借りたり、『お弁当を作り過ぎちゃったの』って、お昼も一緒に食べているのではないかね?」

「小っちゃい頃からお互いの家を行き来して遊んだり、お風呂にも一緒に入ったりしてたんじゃないのか!」

「この学校だって、『洋一が行くならあたしも受験する』って来たんじゃないのか? 『だって洋一とバラバラになったらさみしいもん……』とか言われたんだろう!」

「すぐ隣に住んでいて、お互いに窓をガラッと開けたら顔を合わせて夜な夜な会話をしたり、おてんばだから屋根づたいに遊びに来たりするでしょう!」

 早口でまくしたてる、電算部の面々の猛烈な質問攻めは続いた。

 それも一段落したところで、洋一に弁解の機会が巡ってきた。

「さすがに家は隣じゃないですよ、近所ですけど。それ以外はだいたいやってます。でも学校がバラバラだったらさみしがられてはないですよ……たぶん。ホントはもっと理系の強いとこに行きたかったんですけど、あいつの成績に合わせてここを受験させられたんです」

 現実は非情とばかり、嘆き悲しむ部員たち。

「この王道テンプレのような幼馴染チートめ! 滅んでしまえ!」

「いや、弁当は亜耶のお母さんがふたつ作ってくれたりしたものですからね!」

 部長は静かに洋一の顔を見ながら、またも眼鏡を上げる。

「三枝さんと幼馴染だからって、油断していると他の男を好きになっていたり、他の男に告白されているかもしれませんぞ。別に幼馴染チートというだけで、付き合っているわけでもないのだし……むしろ榊原氏もこちらに堕ちたら楽ですぞ」

 怪しくダークサイドへ手招きをする電算部のメンバーに、洋一も堅い愛想笑いを浮かべた。

「ところで、榊原氏は我が校のウワサはご存知かな? SNSで流行っている学校の招待制の裏サイトなるものがあるのだが」

「裏サイト……っすか? なんですか?」

「どうやら、この春になってから突然立ち上がったコミュニティのようですな」

 そこに洋一と同学年の仲良し地味少年が会話に割って入る。

「この学校のあれこれに関するトピやスレが立って書かれてあるんだよ。でも、ほとんどは先生の悪口とか、目立つ生徒の陰口みたいな、陰湿なものみたいだけど。三枝さんは性格も明るくてスポーツ万能。陸上部では男子部員からも人気だからね。榊原くんも横にいるコバンザメだの書かれないように、気をつけたほうがいいよ」

「招待制なのだが、我々も勝手にログインして楽しませて貰ったのだがね。可笑しくて草が生えますな。ほとんどは他愛もない話だが、リア充ほど陰湿でゲスですぞ」

 普通を装う生徒が、裏で他人を貶める。

 洋一にとっては、人間の恐ろしさや闇深さを実感させてくれる生々しい話に、思わず身体も震える。

 まさか、本当に亜耶のコバンザメ呼ばわりされているわけではなかろうが。

 部長の言葉が妙に引っ掛かってしまい、にわかに心持ちがさざ波立っていた。


 やがて電算部メンバーとのひとときの憩いを終え、洋一はひとり帰宅の途につく。

 亜耶が陸上部の練習がある時は、帰りはバラバラ。

 それでも亜耶の部活動がない時は一緒に帰るし、それに毎朝のように迎えにくる彼女の存在が近すぎて甘えていたのかもしれない。

 そんなふうに悶々と考えながら、歩いていた時だ。

「あら、榊原くん」

 文房具屋から出てくる学級委員の有栖川と、ばったりでくわす。

「有栖川さんもこっちの方の駅を使ってるんだ」

「今日は買い物で寄っただけよ。いつもはあちこち違うところを探して、いいお店を調べてるんだけど」

 特段の話題もなく、それきり会話は終わり無言の間が続く。

「あ……じゃあ、僕はこれで」

 洋一は自宅の方を指差して、そのまま立ち去ろうとした。

「ねぇ、待って」

 毅然とした学級委員の有栖川に見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように、不必要におびえてしまう洋一だった。夕陽を反射して輝く眼鏡のレンズ越しには彼女の瞳、そして自分の情けない姿が投影される。

「たしか三枝さんって、榊原くんのお友達だったわよね?」

「あぁ、うん。亜耶は幼馴染で、ずっと近所っていうだけだよ」

「……そう。それじゃあね」

 そう言い残し、彼に背を向けて歩き出していった。

「どういうことだろ、あれ?」

 質問の趣旨も理解できず、首を傾げる洋一。

 有栖川と亜耶に接点があるとすれば、この春から同じクラスで女子というだけ。

 彼女は図書委員会とバレー部の兼任、亜耶は陸上部だ。

「まさか、有栖川さんは僕のこと好きってことはないよな……いや、それこそまさかだ」

『氷の姫』の異名をとるが、それでも高嶺の花の有栖川と付き合うことができれば、それはクラス、いや学年中の男子の自慢だろう。

 しかし、亜耶の顔が浮かんでは消え、煩悩を払うように頭を振る。

「情けないよな……勝手にひとりで盛り上がって、自分なんかたいした男じゃないのに」

 その時、ポケットに入れたスマートフォンからメッセージの受信音が鳴る。洋一が内容を確認すると、それは母親からだった。

『お醤油とキッチンペーパーが切れちゃったから、悪いけど買ってきて』

 この時点で既に自宅近くまで来てしまったので、駅前のスーパーやコンビニまで戻るのも億劫だし時間の無駄だ。

 洋一はそのまま、近所の公園前の雑貨屋に入る。

 古ぼけた店内に陳列されたわずかな日用品に対して、駄菓子の品揃えが充実しており、幼い頃の洋一と亜耶は遊ぶついでによく買い食いをした、地域の子供にとっての楽園だった。

 イスに腰を下ろした背の小さな老婆が、彼の姿を見るなり声を掛けてくる。

「あら、洋ちゃん久しぶり。ずいぶん大きくなったね」

「おばさん、こんちは。今日は母さんの代わりに買い物です」

 洋一は母から頼まれていた商品のほか、せっかくなので子供の頃によく食べたスナック菓子やジュースなどを購入する。

「お遣いをしてえらいねぇ。うちの孫なんかこづかいばっかりせびるからね」

 他愛ない雑談をいくつかして会計を済ませる。

 細くてしわだらけの手から、ビニール袋に入れられた商品を受け取った。


 洋一は自宅に戻ると、台所に立つ母へ遣いのものを渡す。

「おかえり、洋一。悪かったわね。そこに立替えたお金あるからね」

 テーブルの上には、コショウの瓶で押さえた千円札が置かれていた。

 袋の中から醤油とキッチンペーパーを出すと、なにかが目に入った。

「あれ? こんなの買ったか?」

 表紙が革製の黒いノート。真ん中には金色で魔法陣のような絵が描かれている。

 少なくとも購入した物としては、店内で自分が手に取ったおぼえはない。

「おばさんがオマケでくれたのかな?」

 さして気にも留めず、スナック菓子とともにノートを自室に持っていく。

 カバンとブレザーを放り出すとイスに座り、改めてノートを見る。

 表紙をめくると、よくある海外製品のように日本語も含めたあらゆる多言語で説明書きがされていた、妙に親切な商品だった。

「なになに……魔女と契約を交わす禁断の書?『これを手に取ったあなたは、一番真ん中のページにある秘術の魔法陣に血液を垂らすだけで、魔女との契約を完了させ、願いをひとつ叶えることができるでしょう』……だって?」

 ぶ厚い革の表紙以外は非常に薄いノートで、真ん中のページは、紙を数枚めくるとすぐに出てきた。

 見開きで中央に魔法陣が印刷されている。

 その円の中心は空白になっていて、ここに血液を垂らすようだった。

 説明書きには、次のように続いていた。

「えーと、『魔法陣の下にある枠のなかに願いを書きましょう。現実的な範囲の願いであれば、あなたのその願いは叶うでしょう』?」

 確かに、ページの真ん中に大きく描かれた魔法陣の下には、黒いインクで縁どられた枠があり、そこを願いで埋めよという指示のようだ。

「こんなバカバカしいパーティーグッズ、せめてノートとしての機能があればいいのに、こんなに紙の枚数も少なくて文字ばっかりだったら意味ないじゃん」

 洋一はぽんとゴミ箱に放ったが、そのまま廃棄されたノートをじっと見る。

 これが本当にホンモノだったら、大変なことではないか。

 もしも願いが叶うなら、亜耶や有栖川だけではない。学校中、いや世界中の女性と交際したり、大金持ちになったり、世界を牛耳ることができるかもしれない。

 それに、せっかく顔見知りである雑貨屋のおばさんがくれたのなら、いきなり捨てるのも心苦しい。

「……まぁ、取っておくくらいなら邪魔にならないから、いいか」

 洋一はゴミ箱からノートを拾い上げ、本棚のはじに保存しておいた。


 翌日も、変わりない朝がやってくる。

「おはよう、洋一。さっ、学校いこう」

 亜耶もなにも変わらずに、家の前で待っていた。

 学校に到着するとすでに登校していた有栖川が、席で自習をしている。

 互いの視線が重なると、昨日の会話が思い出されて、洋一もいつも以上によそよそしく通り過ぎて自分の席につく。

 そうして今日も何の変化もない学校生活を過ごしていった。


 放課後、洋一は曜日ごとの清掃当番だったので、教室の掃除をしている。

「ねぇ、木下きのしたくん。あたし達も時間あるから、お手伝いするよ」

 クラスの女子が数名、木下という生徒を囲む。

 端正な顔立ちで背も高く成績もトップクラスであり、運動も得意で性格も柔和。

 女子からの人気も高い、男子の中でも特に目立つ人物であった。

 洋一とは対極にいるかのようで、彼と同じ日に清掃当番になった洋一は、陽の当たらない日陰者として、所在なさげにせっせとほうきを動かしている。

「ありがとう。でも僕が当番だから、ここで手伝って貰ったら不公平だし、みんなのお返しはすべて出来ないからね。責任をもって自分でするよ」

 好青年らしい百点満点の回答。

 一緒の当番だった洋一も、自分の責任で自分にお返ししながら掃除を続ける。

「やっぱり木下くんは優しいね。じゃあ、またなにかあったら言ってね」

 ファンの女子たちは会話をできたキッカケだけでも嬉しそうに去っていく。

 その間も、洋一は黙々と掃除をこなす。

 今日の掃除の貢献度ならば木下を越えるはずなのに、誰からも褒められない。

 ヒエラルキーで下層にいる男子はこの程度だ、と彼には何の感情も無かった。

「ねぇ、洋一まだいる?」

 すると、陸上部の部活に出るはずだった亜耶が、教室に駆け込んできた。

「ジャージの上だけ洗濯して忘れちゃったみたい。洋一の貸してくれない?」

「忘れものの頻度はお互い様じゃないか、まったく……はいよ」

 洋一はロッカーにしまっていた自分の上着の匂いを少し嗅いで、汗臭さを確認してから渡す。

 さっそく亜耶がそれに袖を通した。

「あはっ、袖と丈の長さがだぶだぶ。それに胸に『榊原』って書いてあるし。あたしよりチビだった洋一も、いつの間にか大きくなったよね。ありがと」

 笑顔で手を振って去る亜耶を、呆れ気味に見送る洋一。

 そのまま気を取り直して、掃除に戻ろうとした時だった。

 木下が視線を自分に向けていた。

 いや、自分ではない。教室を出て行った亜耶のゆく先を見ていたようであった。

 得も言われぬ切ない表情で。

 洋一が彼と目を合わせると、すぐに目をそらしたが、それは容易にわかった。

 女子人気も高い木下からの視線に不安を覚え、清掃を終えた洋一はそそくさと教室を去っていった。


 今日は電算部には顔を出さずに帰宅しようと、洋一は校庭を横切る。

 陸上部は学校の周辺でマラソンでもしているのか、トラックには何も置かれてなく亜耶の姿もなかった。

 洋一は先程の木下の顔が忘れられず、腕を組んだまま校門を出るところだった。

「……榊原くん?」

 突然に背後から声を掛けられ、振り返ると学級委員の有栖川が立っていた。

「有栖川さん、いま図書委員会の時間じゃないの?」

「榊原くんに話があって来たの。ちょっといい?」

 有栖川は急に洋一の腕を掴み、校門の外へと連れ出した。

 他の生徒がいないタイミングを見計らうと、小声で洋一に耳打ちをする。

「木下くんはね、三枝さんのことが気になるみたいよ」

「えっ、ちょっ……それってどういう意味なの?」

「言った通りよ。木下くんは三枝さんのことが好きってことよ。榊原くんがしっかりしないと、彼女は取られるわよ。じゃあね」

「ホントに木下が? あ、ちょっと、有栖川さんってば!」

 こちらには一瞥もくれずにそのまま歩いて校舎へ戻る有栖川の背中を見て、洋一も心中穏やかではいられず不安感が増大していった。

 クラスいちのイケメン、木下が亜耶に心を寄せているという。

 もし実際に人間性で勝負となったら、単なる幼馴染である自分では勝ち目はない。

 途端に心拍が乱れ、掌から汗をにじませる。

「やっぱり、亜耶が近くにいるってことに甘えてたんじゃ……」


 混乱した思考に支配されて散漫に歩いているうちに、洋一はいつの間にか自宅へと到着した。

 通学カバンを放り出すと、イスにぐったりと背中を預ける。

「これで亜耶までいなくなったら、もう自分に価値は無いじゃないか……」

 電算部のメンバーが嘲笑とともにダークサイドへ手招きをしている画が浮かぶ。

 背を丸めて頭を抱えたまま悩み続けても、想像の結果は悪くなるばかりだった。

「もし亜耶と木下がくっついたら、僕はどうしたらいいんだ」

 力無く上げた顔の視線の先、本棚にしまったノートを思い出す。

「そうだ、魔女と契約がなんとかって……」

 慌ててイスから立ち上がると、黒い革のノートを手に取った。

 改めて最初のページにある説明書きを読み返す。

「もしこれが本当だったら、血を捧げることで魔女と契約をして、願いを叶えることができるんだ……」

 魔法陣が描かれた真ん中のページを開き、カッターナイフを取り出した。

 だが、実際に血を捧げろといっても、自身を傷つけることに躊躇してしまう。

 刃を指先に当てても、怖くてカッターを引く気持ちになれない。

 なにか良い方法がないか、と神経質そうに爪を噛みながら思案しているうちに、指先のささくれに目がいく。

「我ながら情けないけど、これだって立派な血だもんな。うまくいくよな」

 洋一が指先のささくれをちまちま剥いているうちに、皮膚が深くめくれた箇所から出血した。

 指先から湧き出る小さな血液を集めて、ノートの魔法陣の真ん中につけていく。

 そのすぐ下にある願い事を書く枠のなかに、震える指先で握るペンで文字を綴る。

『三枝亜耶と付き合いたい』

 書き終えた洋一はペンを放り、両手を組み一心に祈った。

 しかし待てど暮らせど、それきりなんの変化もない。

「やっぱりイタズラかインチキに決まってるんだよな。こんなものに頼ってホントに情けないわ」

 諦めて放り出したノートは、カーペットの床にばさっと落ちた。

 その途端。

 ノートから白煙が吹き出し、室内に充満していく。

 さらに、そこに描かれた魔法陣からは光が溢れてくる。

「うわっ、なんだよ!」

 驚いた洋一は、後ずさりしてベッドに座り込んだ。

 まだ夕方にも早いというのに、室内も屋外も暗澹とした闇に包まれていく。

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