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クジラは、その巨体を何度も翻した。
海中を前進することは容易いはずだった。体はそのために作られていたし、尾びれもそのために動くはずだった。しかし今は海に翻弄され、なにひとつ満足には機能しないのだった。
海は突然に様子を変えた。
予測できない流れがぶつかり合い、上昇と下降が同時に起こった。本来そこにないはずのものが無数に漂い、クジラの進行を阻んだ。クジラはその中を、本能を研ぎ澄ますことによって生き延びようとした。
捕食を優先事項とし、エネルギー摂取による消耗の回復をはかった。獲物を飲み込んで、命の糧にしようと試みる。
そこに、その有機物を発見する。生き物としての名残を残しながら、海水に溶けつつあるそれは、混濁の中で孤独に浮遊していた。
クジラは大きく口を開いた。海水だけを排出し、残る中身を飲み込んだ。
すぐに胃の中で熱が発生し始める。単なる異物による臓器の炎症ではなく、飲み込んだ有機物自体が燃焼することにより生まれる熱だった。
クジラ自身はそれを理解はしないが、本能がそう受信する。そしてその熱は、今や危機に直面しているクジラの命の、その動力源として取り込まれる。
それを燃料に、本能はより積極的な形で稼働し始める。
次第にクジラの中に、より明瞭な形態の「意識」が生み出される。それは環境への順応と言うより、打破とでも言うべき強い「意志」へと進行する。
その熱は血液によってクジラの全身に運ばれる。動的な欲求は、その巨体を突き動かす。
そのままクジラは、水面から大きく飛び跳ねる。生存本能としての飛翔欲求だった。
空気へと体を晒すごとに、陽の光が新たな反応を生む。革新され始めた体内の変化に、その光は加速を促す。血液中の酸素量は増し、骨の結合までも強固なものになる。それは新しい生き物への進化欲求となり、「意志」は「希望」へと発展する。
繰り返される跳躍は、やがて飛翔へと達する。「希望」が、高さと距離を更新し続ける。紡錘型の体に付属する胸びれは空を切るように機能し、ひとときの浮遊の後、荒れ続ける海面に巨大な水飛沫を作りながら着水する。それを繰り返す。
クジラは自分がなぜそれをしているのか知らない。ただ生きるために生きるのと同じことをしている。今ではクジラ自身が「希望」の本体となっている。
そうして無数の飛翔を果たした後、その熱に燃やされる形で死んだ。生の終着としての死ではなく、進化の形態としての死だった。
クジラの体は、海の底へと落ちていった。海底は隆起と沈降、分断と結合が同時に発生し、熱水や硫化物などの熱量がいたる場所から噴出していた。
そこに暮らす古細菌、微生物、軟体動物は、急激に変異する環境に奮起されるようにしてそれぞれの生態を更新し、新たな形の生物群を構築していた。
その中心へ、クジラの死骸は着地した。それは巨大な栄養源として歓迎され、肉として食われ、骨として分解された。
クジラの物質的要素はそのようにして消失すると同時に、それを食らった生物の中で合成され、生物群の繁茂と共に爆発的増幅を遂げた。クジラの本質の構成要素となっていた「希望」もまた、それぞれの生物における活動の駆動源へと進化した。
構成形態の刷新により、それらはかつて存在していなかったという意味においての新生物となった。
盛大なる誕生と繁栄のために獰猛なほど活性化していた生物群は、さらなる増殖のために生息域の拡大をはかる。産卵、出芽、分裂などによる子孫の放出である。
それらは海底を蹴る。「希望」の上昇が始まった。
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