第二部:白麗の変革者 第二章

愚者の追憶

 カンテラの明かりが白い夜道を照らす。

 新雪を踏みしめて、ユルグは山小屋へと続く道を歩いていた。


 あまり帰りが遅いとまたミアにいらぬ心配をかけてしまう。それに、早く帰って飯の支度をしなければ。

 彼女は身重であるから、ここ数ヶ月はユルグの手料理を毎日振る舞っているのだ。しかし味覚がない為、味見は必須。以前の二の舞を踏まないために、それはミアに頼んでいる。おかげで、この数ヶ月は不味い飯を作らずに済んでいた。


 今日は何を作ろうかと考えながら帰路を辿っていると、ふとユルグの足が止まった。

 ……何かがおかしい。


 直感でそれを感じ取ったユルグは、カンテラの明かりを足元へと向ける。そこには誰とも分からない足跡が複数残っていた。

 これはユルグのものではない。小屋を出たのは昼過ぎだ。あれから数時間経っているし、行きの足跡など雪が積もってかき消えている。


 だったら、これはなんだ?


 急速に回転を始めた脳内で出た答えに、ユルグは駆けだしていた。

 勘違いならばそれで構わない。でも、そんなもので済ませてしまうにはあまりにも決定的すぎるのだ。


 ――とても、嫌な予感がする。


 息を切らして小屋の前まで辿り着いたユルグの目の前には、誰の姿もなかった。けれど、残っている足跡はここまで続いていた。

 だったら、この中にミア以外の誰かがいる可能性がある。


 武器を取ろうにも、今のユルグは手ぶらであった。街までの道のりは魔物が出ることが殆どないし、今の時期は特にそうだ。それに留守にするのも長時間ではないから、今日小屋を出るときにいつもの剣は寝室に置きっ放しにしていた。


 迂闊さに内心で舌打ちして、ユルグは扉に手を掛けた。



 ――刹那、視界に入ってきたモノにユルグは呼吸を止めた。そこに何があるのか。分かっているはずなのに、理解を拒絶する。けれど、充満する生々しい血の臭気が否応なしに現実を突き付けてくるのだ。


「……っ、あ」


 喉奥から溢れてくるのは何の意味も持たない声だけ。頭の中ではまだ都合の良い妄想が渦巻いている。


 ――だって、こんなのはおかしいじゃないか。どうして彼女が、あんなにも血を流して倒れているんだ。


「――ミア」


 名前を呼んだはずなのに、どうしてか声にならなかった。それに構わず、重い足取りで一歩進む。


 直後――暗闇の死角から何かがユルグへとぶつかってきた。

 それが離れていくと、急激に喉奥から何かが競り上がってくる。鼻腔を突く濃厚な血の臭いに、口端から零れたそれが床に落ちて染みを作っていく。

 脇腹に感じる明確な違和感に、けれどそれに目を向けることなく、ユルグはただひたすらに彼女の元へと向かう。


 けれどそれを許さないとでも言うように、今度は右方から強烈な蹴りが見舞われる。それは夢遊病者のように放心していたユルグを意図も簡単に吹っ飛ばした。手から離れていったカンテラが壁に当たって、灯っていた明かりが消えていく。


 部屋の中央に置かれていたテーブルに身体がぶつかって、瓦礫の中に倒れたユルグの面前には、見慣れない男が二人立っていてじっとユルグを凝視している。顔にキズのある長身の男と、髪と髭をボウボウに生やした小柄な男。


 それを目にして、今のこの状況を作ったのは奴らだと直感する。けれど、問いただす気力はどこにも残っていなかった。


 ただミアの元に行きたいだけなのに、どうして邪魔をするのか。もしかしたらまだ生きているかもしれない。だから早く確かめたいのに、どうしてもそれを許してくれない。


 起き上がろうとしたユルグに、長身の男は口元に薄らと笑みを浮かべた。


「なんだあ? こいつ。簡単には殺せないって言うモンだからどんなのかと思ってたら、まったく手応えねえじゃねえか」

「拍子抜けも良いところだな」


 途端に興味をなくした眼差しがユルグを射貫く。


「まあ、こちらとしてはその方が好都合だ」


 酷く落ち着いた声音で、男の一人が告げる。

 彼らはまるで浮浪者か奴隷のようなボロを纏っていた。けれど、それらだと断じるには彼らの言動には不可思議な点が存在するのだ。

 男たちはどこからか逃げ出してここに辿り着いたわけではない。何か目的があって、ここを訪れたのだ。


 けれど、今のユルグにはそんなことはどうでもよかった。


「安心しろ。すぐに女の後を追わせてやる」


 抜き身の剣を握りしめて、男はユルグへと近付いてくる。

 けれどそれを留めるように、もう一人の……長身の男が腕を掴んで止めた。


「待てよ。お前はさっきやっただろ。今度は俺の番だ」

「……快楽殺人鬼のお前に任せるとズタズタにするだろう。私みたいな一般人には刺激が強すぎるんだ」

「あぁ? 人攫いの義賊が一般人ってタマかよ。だったらよお、俺はお前から殺しても良いんだぜえ?」


 脅し文句に、腕を掴まれていた男は肩を竦めて手を離す。長身の男はそれに満足して、彼から剣を奪うと鼻歌を歌いながら、未だ起き上がろうとしないユルグに近付いてくる。


 彼らの話を耳にして、そこでやっとユルグは夢うつつから目を覚ました。

 今のこれは、どうしようもなく現実なのだ。


「なんで」

「あ?」

「なんでおれは、いきてるんだ」


 ほとんど無意識に口から零れた呟きに、答えてくれる者はこの場にはいない。自分自身でさえも判然としないのだ。

 それでも……それが分かっていても自問自答せずにはいられなかった。


 ミアはユルグよりも、もっと沢山の時間を生きるはずだった。そして、もうすぐ産まれてくる子供やその孫、友人。沢山の人に囲まれて、老いて死ぬ。ユルグが願ったミアの幸せは、何の変哲もない普通のものだ。

 誰にも看取られずにこんな凄惨な死に方なんて、あってはならない。


「なんだ、お前死にたいのかあ? ヒィッ、ハハハッ! そいつはちょうどいいや!」


 ユルグの呟きに応えるように、男は可笑しそうに笑い出した。その哄笑をぼんやりとした頭で聞いていると、彼は告げる。


「お前さえ殺せれば、俺たちは恩赦がもらえんだ! 晴れて自由の身になれるっ! だから、出来れば大人しく殺されて欲しいなあ。なあ、いいだろ? 俺の為なんだから」


 剣の柄を両手で握りしめて、切っ先を抵抗もしないユルグの左胸に突き付ける。

 そんな状況で、今まさに突き殺そうとしている男から目を逸らしたユルグが見据えたのは、ミアを手に掛けたであろうもう一人の男だった。

 彼はユルグの眼差しに気づくと、途端に表情を歪めた。


「……っ、すまない。私はどうしても娘に会わなきゃならないんだ」


 彼の口から出た言葉は我が子を想うものだった。きっと根は良い、善人なのだろう。下卑た笑みを浮かべるこの男とは本質が違うのだ。

 けれど、謝られたって何にもならない。謝罪の言葉を吐いたからといって、ミアが戻ってくるわけでもなく、それを彼も分かっている。自分の罪を理解して、それでも望みを叶えるために必死なのだ。


 彼の懺悔を聞いて、胡乱だった眼差しにゆっくりと光が戻ってくる。


 ……そうだ。まだすべて失ったわけではない。


 もう少しで産まれてくるはずだった我が子のことを思えば、いつまでも嬲られてはいられない。

 ……亡くしたものは戻らない。ならば、一つだけ残っているものは。それだけは亡くせないのだ。


「……どいてくれ」

「あ? ヒハハッ、この状況で何いって」


 倒れたままのユルグを見下ろして、余裕に笑みを浮かべる男。

 彼が言い終わる前に、ユルグは心臓に突き付けられていた剣の刀身を左手で鷲掴んだ。それと同時に右の脇腹に刺さっていた短刀を抜くと、それを男へと振り下ろす。


「うはっ、マジかよ。やるねえ」


 けれどそれは、素手の手のひらによって防がれる。

 手を貫いた短刀をそのままに、両手持ちから片手持ちに切り替わった剣をぐっと引き抜いて奪い取ると、倒れた状態から足払いを仕掛けて距離を保って立ち上がる。


「おいおい、どうしたんだよ。いきなりやる気になっちゃってさあ。ま、俺も無抵抗の人間を切り刻むのはちょーっと抵抗があったんだ。殺る気になってくれんなら嬉しいぜッ!」


 男は手に刺さった短刀を抜いて右手に握り込むと、予備の剣を引き抜いて僅かに空いた距離を無造作に詰めてきた。


 こういう手合いを相手取る場合は、出方を見るのがセオリーだ。けれど、今はそんなことをしている余裕も暇もない。

 さっさと始末をしてミアの元へ行く。その為には自分の身体など、いくらでもくれてやる。


 数歩の距離を詰めて肉薄すると、相手は的確にこちらの急所を狙ってきた。両手に握っている武器の狙いはどちらも顔面。ユルグはそれに気づいて……けれど、避けずに斬撃を受け入れる。


 横薙ぎに振られた剣は、右前腕で肉を切らせてやる。片手に奪った剣を握りしめて、ユルグの狙いはただ一点。

 左目を突き刺した違和感に手を止めることなく、それと同時に相手に穿った剣先はあっさりと喉元を貫いていた。


「がっ、ははっ……お、い……いってえな」


 聞きたくもない声が聞こえてくる前に、ユルグは男を押し倒していた。呆気なく倒れた男に馬乗りになると、手負いの獣とは思えない苛烈さで、左目に刺さった短刀を引き抜いて男の顔面を滅多差しにする。


 誰のとも分からない血だまりが出来上がっているのに気づいたときには、既に眼下の男は事切れていた。

 それを一瞥して立ち上がると、背後を振り向いたユルグの視界にはもう一人の男が突っ立っていた。

 そう、ただぼうっと立っているのだ。その手には何も握られておらず、空手である。他に武器を隠している気配もない。

 なによりも先ほど、あの男を殺している最中ならば絶好のチャンスだったはずなのに、彼は何もしなかった。

 いや、既に彼には何もする気はないのだ。


「……っ、なんなんだ」


 ――やっと、喉奥から声が絞り出せた。


「お前はッ! なんなんだよッ!」


 掴みかかって、背中をドアへと押し付ける。荒々しいユルグの言動に、それでも男はそれを黙って受け入れていた。


「いまさらっ、謝ろうが何しようが遅いんだよ! アンタが死のうが、俺が死のうがミアは戻ってこないんだ!」

「……そうだ」


 怒り狂うユルグとは対照的に男は酷く落ち着いていた。それに奥歯を噛みしめて睨み付けると、彼は憎悪の籠もった眼差しを真正面から受け止めた。


「私は娘に会いたかった。その為なら何でも出来ると思っていたんだ。無抵抗な人間一人殺すことなんてわけはないと……でも、しっ、しらなかったんだ。身籠もっているなんて、わたしは」


 男の声は震えていた。肩を揺らして動揺がありありと滲み出ている。けれど、ユルグはその様子を冷ややかに見つめていた。


「知っていたら、お前はやめたのか?」


 尋ねると男はユルグの目を見つめた。無言のまま、何も答えないのを見据えて、ユルグは続ける。


「やめないだろ。お前が殺さないとしてもあの男が代わりにやっていた。お前はそれを止めない。ただ見ているだけだ。俺の前でクソみたいな懺悔を垂れているんだからなあ!!」


 ドアを蹴破る勢いで蹴りを入れると、男は外に吹っ飛んでいった。

 剣を握りしめてそれをすかさず追うと、未だ蹲ったままの男に再度蹴りを入れて、眼下に見下ろす。


「お前は殺す。抵抗しなくても殺す。ただ死ぬ前に、誰に命令されてこんなことをしたのか、話してから死ね。それを聞き出すまでは簡単には殺さない」


 それに男は何かを口に出そうとしたが……それよりも先に押し込めた剣の刃先が男の腕をぶつ切りにする。

 漏れ出たのは言葉ではなく、耳を劈く叫び声だった――。

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