変わり果てた景色

 ――二日後。


 まだ太陽も出ていない早朝に、フィノはメイユの街へと辿り着いた。

 彼女の後ろには眠そうに目を擦りながらよろよろとした足取りでついてくるカルロ。ベルゴアを出てからかなりの強行軍だった。彼女が疲れ切っているのも無理は無い。


「ねむい……さむい……」

「フィノはお師匠のところにいってくる。カルロは」

「ふああい、……私はおじいちゃんのところに行ってくるね」


 デカい欠伸を零して、気の抜けた返事をするとカルロはふらふらと去って行く。

 それに目を向けず、フィノは一目散に山小屋へと向かった。


 ――白む息を吐き出して雪道を行く。


 気持ちばかりが急いでしまって、呼吸が浅くなる。

 きっと、こんな早朝に訪ねては非常識だとユルグに怒られるだろう。けれど、それでもいい。フィノの知るお師匠が目の前に居てくれれば、何を言われたって構わない。


 ――白い丘陵をのぼっていく。


 あんなのは根も葉もない噂だ。王殺しという重大事件を魔王の所為にしてでっちあげただけだ。

 そもそもユルグがあんなことをする理由がないし、必要もない。ちゃんと考えれば分かることだ。それなのに不安になって、こうして会いに来て……馬鹿だな、なんて言われて呆れられるに違いない。


 ――小屋が見えた。


 二人の顔を見て安心したら、お茶を飲んで、暖まって。この一年の話をしよう。今のフィノを見たら二人はきっと驚く。

 ミアは手放しで頑張ったねと褒めてくれるはず。ユルグはあまり……たぶん、少しは褒めてくれると思う。でも素直じゃないから、難しいかもしれない。


 ――扉に手をかける。


 それから、ミアが作ってくれた朝食を食べて少しだけゆっくりしたら……二人に「おめでとう」を言おう。手土産はないけれど喜んでくれるはず。

 それと、産まれてくる子供の名前も聞いておかなきゃいけない。ユルグは名付けのセンスがあまり良くないし、念のためかわいい名前を考えておかないと。




「……っ、なんで」


 それなのに、どうしても目の前の扉を開けられない。

 直感で、おかしいと気づいてしまったからだ。


 街からここまで来るのに、往来の痕跡が一つもないことも。

 小屋の周囲が無人の住居の如く、積もった雪に覆われていることも。


 どれも、ここには誰も居ないのだと物語っているのだ。



 それを否定したくて、頭の中では適当な理由を思い浮かべる。

 きっとミアもユルグも街の方へ行っているのだ。彼女は身重であるし、何かあればこの場所では不便だから……今だけ留守にしている。

 そう考えれば何も不自然なことはない。そう、馬鹿らしい取り越し苦労だ。だから、はやくここを開けて確認して、何も心配は無いのだと安心したい。



 そして――扉を、開けた。


 目の前にある光景に、フィノは愕然とした。


 まるで生き物の臓物を部屋中にぶちまけたかのような、血生臭さが鼻につく。それに顔を顰める前に目についたのは、床を濡らしている大量の血痕。斬撃痕が至るところに残っている室内。数本の血塗れの剣が床に放られていて、刀身にはべったりと血が付着している。


 これらは誰の物なのだろう。

 ここで何があったのだろう。

 確証は無いのに悪い予感ばかりが膨らんでいく。


 口元を手で覆って、目を逸らしたくなる光景を必死に見つめる。

 見たくないけれど、考えたくないけれど。向き合わなければ答えは出ない。


 見たところ、室内に残っている血痕はすべて乾いている。この場所で起きた惨劇は、ここ数日のものではない。

 一歩足を踏み入れて、落ちている剣を手に取る。

 見たことのないものだ。ユルグの持っている剣ではない。落ちている剣は三つ。欠けたり折れたりしていないから、使えなくて捨てたわけではない。

 ということは……三人。部外者がここに居たことになる。


 そこまで推理して、フィノはふと窓の外に目を向けた。


 直後に、ガンッ――と、手から拾った剣が落ちる。

 指先が震えて取り落としたそれに目も暮れず、フィノの思考はそこで停止する。


 ちょうど、小屋の裏手。ユルグの師匠の墓が並んでいる。

 その隣に……一年前にはなかった、見慣れないものがある。


「う、うそだ……」


 よろよろと後退りして、尻餅をつく。


 頭の回転が緩くなった脳内で、何遍も同じ答えが繰り返される。否定したいのに、この状況がそれを許さない。


 フィノがユルグと別れた後、この小屋に住んでいたのは二人で。だから……ここに住んでいた人間で、死んで――殺されてしまう可能性のあるのは、たった一人しか思い浮かばない。


 決定的な解答が頭の中で出来上がっていく。でも、それをどうしても認められない。


「な、なんで……こんなっ、どうして」


 うわごとのように繰り返して、この場から逃れるように外へと向かう。けれど、足に力が入らずに立ち上がれない。

 乾ききった血の海を這って、手のひらを赤く汚しながら寒空の下に出る。

 扉の前、外との境界にへたり込むともう一歩も動けなくなった。


 吹き付ける冷たい風が、心さえも凍らせていく。

 ボロボロと零れ落ちる涙だけが異様に熱く感じる。まるで眼球が溶けてしまったみたいだ。


「ミアっ……いやだ、いやだよ……っ、なんで……ユルグぅ」


 認めたくなくて、必死に縋り付くように名前を呼ぶ。

 けれど、彼は既にこの場にはいない。居られるはずがない。こんなことになっては、フィノのように泣き崩れて黙っていられるわけがない。許せるはずがないのだ。


「――っ、フィノ!」


 雪の上に涙の跡を作っていると、遠くから名前を呼ばれた。

 顔を上げると、こちらに向かってくる人影が見える。


「……エル」

「カルロから、ここに居るはずだと聞いた」


 杖をつきながら不自由な身体でここまで来たエルリレオは、へたり込んでいるフィノを力強く抱きしめた。

 背中に腕を回して、嗄れた手が優しく撫でてくれる。それにますます涙が溢れてくる。

 声を上げて泣き出したフィノに、エルリレオは殊更に強く抱きしめた。


「わかっている。何もいうな。……今は好きなだけ泣くといい」


 かけてくれた声は微かに震えていた。

 彼も悲しいのだ。けれど、それを表に出さないように堪えている。フィノがちゃんと泣けるように。

 それを知ってしまったら、いつまでも泣いているわけにはいかない。

 哀しみはそのままでいい。けれど、泣き止まなければ何も出来ない。


 どうしてこうなってしまったのか。何があったのか。それを知らなければ。きっとその先にユルグの行方も見えてくる。


 しばらく泣き喚いて……泣き腫らした目を開くと、エルリレオの背中越しにカルロが立っていた。

 フィノを追ってきた彼についてきたのだろう。

 けれど……その腕の中に見慣れないものが抱かれている。


「それ……」


 言葉で指し示すと、カルロがそれを抱いてフィノの傍に寄る。

 手を伸ばせば触れられる距離にあるのは、小さな小さな命だ。


「似ているものだろう? 目は父親譲りだが……涅色くりいろの髪色はミアにそっくりだ」

「うん……顔がしわくちゃだ」


 指先を伸ばして優しく触れると、フィノの人差し指を柔らかな手がぎゅっと掴んだ。


「よかったね。この子、フィノのこと好きだって言ってるよ」

「こ、これどうすればいいのっ?」

「抱いてあげるといい。ほら、私みたいに腕に抱いて……そうそう」


 カルロから渡された赤ん坊は、ずっしりと重かった。

 それでいて、とても温かい。冷え切った身体がじんわりと熱をもってくる。


「……この子、名前は?」

「ヨエルだと、言っていたよ」

「きっとミアが付けた名前だ。お師匠はセンスないからなあ」

「ふははっ、そうなのか?」

「うん、ぜったいそう」


 断言すると、そうだと言わんばかりに腕の中にいるヨエルが声を上げた。


「うぅー」

「そうだよね。やっぱりヨエルもそう思う?」


 優しく声を掛けると、彼はぎゅっとフィノの指を握りしめた。

 愛しい仕草に微笑を浮かべて、フィノはエルリレオに問う。


「エル……ユルグはどこ? この子おいて、どこにいったの?」

「それが、儂も分からんのだよ」


 力なくかぶりを振って、エルリレオは答えた。

 それでも知っていることは話そうと、彼はあの日のことを語り出した。

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