第4話

外は雨が降っていた。どうやらぼくは地下五階に居たから気付かなかったらしい。ジンワリと身体中に泥を塗りたくられるような空気だった。雨はどうだろう、強いとも弱いといえない中途半端なもので、しかし依然として止む気配はない。

 傘など持っていなかった。

 家までは遠いわけではないが、しかし近所と呼べるほどの距離ではなく、やれやれ、こちらも中途半端か。だからと言ってここで雨宿りするわけにもいくまい。なぜならここは病院で、ぼくは此処の正式な患者ではないのだから。

 飽くまでぼくは先生の――個人的な患者なのである。病院には一切関係がない。

 という訳でぼくは此処に長居したくはない。今だってこうして看護師通用口から勝手に出入りしているわけだし……。見つかって先生に迷惑かけるのも嫌だし。

 まあ何時止むかもしれないのを待つより、ずぶ濡れ覚悟で強行突破する方がこの場合得策だろう。風邪を引いたって学校を休むいい口実になる。

 それに…………ぼくは雨が嫌いじゃない。

 いや、濡れるのは嫌いだが。別に矛盾などしていない。

 雨に魅かれる――理由はわからないけれど。

 音なのか。光なのか。色なのか。感触なのか。匂いなのか。雨に味は――無いか。それでもぼくの心を燻ぶるには十分すぎる何かが、ハッキリとある。あまりにも抽象的で、理由だって有耶無耶だけれど。知らないのだから知りようがないし、第一知りたいとも思っていない。

 ぼくはコートのフードを目深に被って、今まで雨覆いの役目を果たしていたひさしから一歩踏み出す。

 ぴちょん――と水溜りが鳴いている。水滴が弾け地面と一体化する、水を吸収しきれず濡れたアスファルトに光が弾けて、まるで細かいガラス片のように反射する。

 雅かこんなことで美しいとか、綺麗だとか、幻想的だとか言うほどぼくはロマンチストではなかった。

 暫くして雨水がコートを浸透していく。頭やら肩やら特に出っ張った所がじんわりと冷たくなっていった。

こんな時間(と言っても正確な時刻はわからない)、しかも雨が降っていることも相俟って、人影はおろかか車ともすれ違うことがない。無人の道路を、雨音に足音を掻き消されなが歩く。

だから気付かなかった。雨音で掻き消された足音が、無意識のうちに自分のモノだけだと思い込んでいた。天候が変わった所為で、すっかり場面が転換したものだと錯覚していた。ぼくはアイツの存在を失念していたのだ。

迂闊だった、油断していた、慢心していた。

そうだそうじゃないか。魔法少女は確かに主人公だが、それでも勝手に魔法少女になることはない。人類が突然変異しても魔法少女にはならないし、人間が変態したって魔法少女にはなれない。怪力も、俊敏も、そしてタフネスも、メンタルも、どれも人の範疇に収まるものではなかっただろうに。

少女に魔法の力を授ける誰かが、何かが存在していると考えた方が自然だろう。否、不自然なのだ。だけどそうとでも考えない限り、今回の状況はやはり説明できない。そんなこと少し考えればわかったはずなのに。果たしてツキが回ってきたのか、焼きが回ってきたのかどっちなのだろうか。

濡れるのは確かに――嫌だよな。

 ぼくは彼(彼女?)に同調するようなことを思って、そしてその金色に輝く人を見据える。誰も邪魔するものおらず、何も邪魔する物はなかった。

 ぼくらは一直線上に並ぶ。待ち伏せされていた……のだろう。やはり。

 ぼくは雨に打たれながら――しかし、目の前の存在はまるで雨など存在しないかのように、一滴の雨も被ることなく、僅かの飛沫を立てることなく、四本足で水溜りに浮いていた。

 真っ直ぐと此方を覗き込むようにして凝視する黒猫。けれどそれが猫ではないことは明晰だった。聞いたことがあるだろうか? 見たことがあるだろうか? 水溜まりを飛び越えるわけでもなく、水溜りに浮くわけでもなく、を。そして彼の猫が存在している水溜りは時間が静止しているかのように鏡面を保っている。無論今だって雨は降り続いているといいうのに……‼。

 ……一体、どいう仕組みなのだろうか。傘が不要で楽そうだ――などと考える余裕は流石にない。

 ジワリと綿布が水を吸収するように緩やかに、それでいて着実に緊張が肉体へ波及する。焦る必要はないはずだ……多分だけど。しかし考えるより早く、背中は明らかに雨以外の液体で濡れていた。瞳孔が開き、息を吸い、触覚がより鋭敏に研ぎ澄まされる。

 沈黙が流れる。

 静かな街に雨音だけが反響して、まるでぼくらの逢着(ほうちゃく)を祝福しているようだった。冗談じゃないが。少なくともぼくは、こんなラスボスみたいな奴との会遇望んじゃいない。

「――お前か」

 先に沈黙を破ったのはぼくの前に現れた黒猫だった。今更、猫が喋ったくらいで驚きはしないが、猫が痕にも流暢かつ感情に溢れた言葉を喋っていることに対して、違和感を拭い切ることはできない。正直溜息をつきたい気分だった。黒猫ってだけでも不吉なのに、雅かその猫が喋るなんて嫌な予感しかない。

 そしてどうやらその嫌な予感は的中していたようで、黒猫は「お前が彼奴あいつらを倒してくれたんだな」と続けた。

無論恨み節たっぷりに。まるでぼくが悪いかのように。世界から――物語から消えるべきはぼくだったと言わんばかりに。その声は酷く怨嗟に塗れていた。だけどこれが正しい反応なのだろう。物語とは往々にして誰かのモノで、それは確実にぼくのモノではない。ぼくは部外者で物語を無作為に破壊する。本来の所有者からすれば、ぼくほどの邪魔者はいないのだから。

「ぼくは生来面倒くさがり屋なんです。生まれる事すら億劫に感じるほどに。怠惰だと言い換えることもできるでしょう。生きることに怠惰だと」

 その言葉は滑稽なほど言い訳じみていたし、実際に言い訳だった。見逃してもらおうなんて甘々に考えていたわけじゃない。けれど許されたいと思う気持ちがなかったと言えば、それは立派な虚言へと昇華されるだろう。

「いや、傲慢だろ。お前は生きることに傲慢なだけだ。怠惰なんて言葉で誤魔化すんじゃねぇよ。お前は、他人を見下して、傍観して、達観者を気取っているだけだ」

 …………うぐぅ。

 下らないと、唾棄するようにして彼は言った。ぼくの本質が一瞬にして看過される。言い返すことなど到底できない。

 やはり人間でないだけある。それとも間怠っこいやり取りが嫌いなだけだろうか。街灯によって晒された黒猫の表情からは、何も読み取ることはできなかった。

 元より猫の表情どころか人間の表情すら読み取るのに難がある上、この距離だと表情どころか髭の数だってわかりゃしないが。視力は悪い方ではないが、これと言って良いわけでもない。良し悪しの縮尺は一般的なもの使って貰って構わない。

「そこまで分かっているなら、ぼくに遭う必要なんてなかったんじゃないですか」

「あそこまでされて、何もせずに帰れる訳ねぇだろ」

 ゆっくりと向かってくる彼の四本足は異次元を歩くようにして、水溜まりの上に波紋だけを残す。奇妙で不気味で摩訶不思議な現象であるはずなのに、そうある事こそが正しいように思えてしまう。

 しかし同時にそれはぼくに対して何かするという宣言でもある。人畜無害であるはずのぼくに、鬼畜の所業を科すという。

「ならぼくを殺しますか」

 単刀直入に訊く。ぼくは間怠っこしいのが嫌いじゃない、けれど今回ばかりはそうもいかないだろう。なんせ相手は人間じゃない。この世物でも――無いかもしれない。なら、出来ることは少ない。皆無にして絶無、そう言っても過言ではないくらいに。

「なんだ。殺して欲しいのか?」

 自殺願望。自暴自棄。希死念慮。死んでしまえば後悔することもない――なんて、所詮無知で無恥なぼくの浅墓なのだろう。辛苦も辛酸の味もわからないような、エアコンの効いた部屋で好き嫌いしてきたぼくの台詞でしかないのだ。

「殺されたくないですよ、そりゃ。死にたくないですから」

 けれどやっぱり、死んでしまえばこんなことも思わないのだろうと考えてしまう。

「それじゃあ答えになってないだろ。何かこの世界に後悔でもあるのかよ」

 まるでぼくの全てを嘲笑っている。彼の方がぼくより余程傍観者だった。

「後悔しかないですよ。この世界には後悔と心残りしかない」

「良い事なんて一つとして無かったと?」

「そういうことになりますね」

 ………………。

 ……………………。

 森閑とした空気の中、雨粒が地面で弾ける音だけがこの空虚な時間を埋め尽くしていく。――不意に。ニャぁ、猫の鳴き声がする。欠伸をするような弛緩した声で、眼前にまで迫った黒猫は唯一白い髭をかいた。

「……彼奴らが居れば、間違いなくお前は敵だったろうよ」

 皮肉すら含まれないその口ぶりからは、既に会話を求めていないことがわかった。どうやら、誰も笑えない談笑パートは終わったらしい。

「だけどぼくにとって貴方は、彼女達は敵ではなかった。ただそれだけです」

 強弱の話でもなければ、本物偽物の話でもない。そういう意味ではぼくと彼女らは平等だったのだ。対等でなくともバランスはとられ、均等に釣り合い、公正に公平だった。何も傾いてなどいなかった。

「だが、俺とは敵だ」

「そうですね。確かにぼくは貴方の敵だ。けれど、相手をするのはぼくじゃない」

 彼が人ではなく、この世のものですらないというなら、既に僕の手に負える範疇を凌駕している。ぼくは飽くまで対人、主人公。人でなしとはぼくのことだが、人外を相手取るには些か役不足である。ぼくには名前のない三枚目を演じるくらいが手一杯だ。誂えたって主人公には成れやしない。

 目には目を歯には歯を、人外には人外を――今更過ぎる攻法とて、正攻法には変わりない。ぼくに出来る事なんて、精々飛沫がかからないよう後ろに飛び退くくらいの事だった。

 最後に映った光景は、茫然とぼくを見つめる黒猫の姿だけだった。

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残音共鳴 サツキノジンコ @satukino

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