第3話

 時刻は午前一時を回ったくらいだろうか。この部屋は地下五階に存在しているので窓がなく、また掛け時計も置時計もないので、日本標準時など知りようもなかったが、何となくそんな気がした。と言っても、所詮ぼくの適当な体内時計なので誤差三十分はあると思われる。

換気の悪い地下の部屋はジンワリと空気が湿っていて、それに湿布やら、消毒液やら、包帯やらの匂いと、そしてほんの微かに鼻腔をつくホルマリンの匂いで充満していた。

正直あまり長居したいとは、思えない。無骨な打ちっぱなしのコンクリート、ギシギシと軋む簡易ベッド、青白い光を放つシャウカステン、その全てがぼくを陰鬱とさせる。

しかしながら、ぼくはここで彼女から治療を――しかも善意で―――受けている身なので、待遇の改善など要求できないが。

「よし、もういいよ」

 彼女はそう言ってバシンと、背中をひっぱたいた。どうやら包帯を巻き終わったらしい。

「ッつ、いてて……。そんなに勢いよく叩かれると、背中の傷がまた開くんで、程々にしてくれませんかねえ」

 今回負った傷はそのどれもが打撲系、或は軽い擦過傷ばかりなので万が一にも傷が開くなんてことは有り得ないが、きっと背中の包帯の下には彼女の真っ赤な手跡がくっきりと刻まれたことだろう。

 しかし実際に怪我が増えたわけでも何でもなく、ただ痛みが増しただけなので、ぼくは諦めて今日の戦闘でボロになったTシャツに首を通す。

「ばーか、骨折られてないだけありがたいと思いな」

 本気で叩くと骨が折れるのか……。

「全く、貴女のどこにこんな力があるんですか、先生」

 身長こそぼくより十センチは高いが、三徹したかのような不気味な顔色と、スレンダーと呼ぶには痩せ気味の体、腕と脚だってやはり細い。しかし人を見かけで判断してはいけないとは、まさに彼女のために存在する様な言葉で、事実肉体的なポテンシャルは裕に成人男性を超えている。

「……うーん、意外と医者って体力勝負みたいなところあるんじゃない? 知らんけど」

 知らないのか……。随分とまあ適当な返事だった。

 しかしそんなものだろう。単に自分のことを考える時間が――慈しみ慮る時間が不足しているだけかもしれなかったが。

「まあ、そういうことは本業の奴らが答えることだろうな。私から意見を聞いたところで何の参考にもならねえよ、時間の無駄だ。アンケートの《その他》に分類されるような奴を参考にするなって話だ」

 確かに、彼女の答えは参考にすべきじゃない。何せ彼女は異分子イレギュラーなのだから。言い換えるなら《欠けた欠片ロストフラグメント》、世界の道を踏み外した者たち。そんなのまるっきりの人外で、人外以外の何物でもない。最早人類ですらないというのであれば、彼女の話を聴くことなど全くの無意味で無謀なのだ。

「でも先生、ぼくは貴女が十全なまでの人外であってくれてよかった、と思います」

「え、何それ褒められてるの?」

 書いていたカルテの手を止め、驚いた表情でこちらを見る先生、先生が驚く瞬間なんて早々見られるものではないので、ぼくは少しだけ嬉しくなった。

 もし手元にスマホのカメラがあれば激写したところだが(先生を揶揄からかうため)、生憎ぼくはケータイを家に置いてきてしまっているので、しっかりと眼球に焼き付ける。

 よし、保存できた。

「……いえ褒めてんなんかいませんよ。先生を褒めるなんて、ぼくがそんな恐れ多い事出来る筈がないでしょう。だから、感謝してるんですよ」

「カンシャ? ……ああ感謝ね。いや人外なんて言うもんだから私はすっかり貶されているのかと思ったよ。いやーすまんね」

 ぼくはそんなこと言うような奴だと思われていたのか……、いや何気にダメージデカいぞ、コレ。ぼくと先生の信頼度に差がありすぎる。

 しかし感謝していると言った方は満更でもないのか、顔持ちは柔和で頬は少しだけ上がっているようだった。

「先生がもし物語の主人公足りえたならば、ぼくは先生と戦わなくちゃなりませんからね。それはやっぱり辛いです」

 今彼女が此処にいる偶然。

「……安心したまえ、影織少年。私はどんな私になろうとも、私がどんな私であったとしても、キミの味方でありゅ……」

 …………………………。

 …………………………。

「ゴホン――安心したまえ、影織少年。私はどんな私になろうとも、私がどんな私であったとしても、キミの味方であると約束…しよ、う」

 噛んだ! しかも言い直した! ここぞって台詞でこの先生、噛みやがった。嘘だろ⁉まさか一番大事な所で噛むなんて、いやホントと何考えてんだ?? ほらもう、無理して言い直すから最後のほう恥ずかしくなって言い淀んでるし……。本当にもう――

「――可愛い……」

「ひゃっ⁉」

 普段の先生からは想像がつかないような高い声――と同時に、あの青白く発色の悪かった頬が健康的な肌色を取り戻した。

 しかしなんつー可愛い反応。先生の羞恥心メーターが振り切れている。これはもう完っ全に乙女だ。頬に手を当てる仕草とかもう花も恥じらう乙女のそれだ。どうしよう、まさかここまで可愛い反応をするとは。いや、普通に可愛いぞ。これもう世界一可愛いんじゃないかってレヴェルなんだが。いやもうこれ宇宙一可愛いわ。どうしようカメラが欲しい。なんでこんな日に限ってスマホ家に置いてきたんだ? ぼくはバカなのかバカなんだな。あああああああ! スマホで写真撮って待ち受けにしたい。何なら動画も一緒に取りたい!!!!

「……な、なぁ――」

 弱気な先生マジでかわいいんですけどどうしよう。

「――何か言えってぇ」

「すみません。あまりにも可愛かったので」

 また先生が『可愛い』という単語に反応して「うにゃ」とか声上げたけど、ぼくは反応しない。しないったらしないぞ。

「あんまり可愛い可愛い言うな、こんなんだがな、私にだって……私にだって羞恥という感情はあるんだ」

 そんな小言を吐きながらも僅かに頬を膨らませる先生、どうしよう普段とのギャップが凄すぎて可愛いを通り越して面白くなってきた。しかし先生がテンパるとこうなるのか、新しい発見である。

「……あまり揶揄わないで欲しい」

 プイッと顔を背けてしまう先生とかもう反則なのだが、あまりこうしていては先生が本格的に拗ねてしまいそうな予感がしたので、隠忍自重。右手を頬に当て上がりかけた口角を無理矢理元に戻す。視線を下げて少しだけ、肺にある空気全て絞り出し息を止める。三秒間。心の中できっちり数える。頭と心を同時に冷やしていく感覚、思考のチャンネルを切り替える。

「わかってます。ですが揶揄ってなどいませんよ。飽く迄ぼくは本心の一部を吐露したにすぎませんから。ですが少し笑ってしまったのも事実です、そのことについては謝罪しましょう」どうやら上手くぼくの思考と感情は冷却クールダウンされたらしい、ぼくは短く息を吸って「すみません」と一言言って頭を下げた。

「い、いや、いいんだ。私こそすまなかったな、年甲斐もなくはしゃいでしまって……しかも年下に謝らせるとは」

 どうやら先生の方も多少は落ち着いたのか、ギィと回転椅子に一層深く腰掛けた。

「でもその言葉は素直に嬉しいです。先生がぼくの味方になってくれるって話」

 一瞬先生は『その』が一体どの言葉を指すのか迷ったようだが、「ああその事か」と過ぎに納得しようだった。

「当たり前だ。大体キミ、私がいないとすぐに死ぬだろ? もし私が《欠けた欠片》じゃなくて主人公だったりしてみろ、キミは間違いなく即死だ。本当の意味での即死さ、物語の石ころにすら成れない」

「そう……ですね」

 当たり前の話だけれど。自分自身ではわかっていたはずなのに。別に否定して欲しかったわけではないのだ。しかし、こうもズバリと断言されてしまえば、覚悟していたはずなのに、決めたはずの覚悟をすり抜けるようにして苦しさが浸透する。心が、体が、ショックを受けているのがわかった。

「でもな、私はきっと主人公には成れないよ。だから、私はキミとずっと一緒だ。勿論主人公になれないことに不満なんてないさ、寧ろ《欠けた欠片》であることで満足できる。君と同じ土俵には立てずとも、キミと同じ側に立てるのなら、私は命だって惜しくない」

 心強い――とは感じなかった。そんな安っぽいセリフで飾れるほど、この関係は単純ではないし美しくもない。なぜならぼく達はもっと汚くて、ドロドロとした底なし沼の底で絡まっている。しかし、それでいいと感じられた。

 先生の顔色は、もうすっかりいつもの青白に戻っていた。

「それに私は知っているしね」

「確かに、知られていますね」

「ああ、私はキミが見かけによらず、案外、寂しがり屋なのを知っている」

 どうやら、やはり、お見通しのようだった。医者の目は伊達ではないということか。

「私がいないとキミ、寂しいだろう?」

 先生は優しく風のように微笑んでぼくに問う。ぼくは少しのも逡巡することなく、けれど一呼吸おいて答える。迷いが入り込む余地なんてあるはずもない。

「ええ、それはとっても寂しいです」

 ぼくは笑った。先生も笑った。それは決して冷笑ではなかった。無論いつまでも同じように笑っていられるなんて思ってはいないけれど、今はそれでよかった。

 …………。

「……訊かないんだな」

 先生は不意にそんな風に問う。まるでぼくに訊かなければいけないことがあるかのように。そんなものはないというのに。先生は何か勘違いをしているらしい。

「……わかりませんね」

「お前は肝心なところで阿呆だから知らないかも知れないが、ここは普通訊くべきなんだよ。少なくともお茶を濁すような所じゃない」

 一体、何を訊くべきなのだろうか。好きな料理か? 好きな季節? 好きな数字? それとも―――――。

 先生はいつになく冷ややかな口調でぼくに言う。ジンメリとした空気が全身を包み込んだ。彼女の視線はぼくに分っているだろうと、語りかけてくるようだった。

 その通りだ。ぼくだって分っている。だけどそれ以上にぼくの役割でないことも承知しているだけだ。だからぼくは、彼女の視線を振り払い答える。

「…別に惚けてなんていませんよ。惚けるなんてとんでもない。センセイ、それをぼくが知って、だからどうなるっていうんですか。ぼくにことごとく無力だ――それは貴女が一番ご存じでしょう?」

 徹頭徹尾、どうすることもできない。なら、知る必要なんてない。

「……私はそうは、思わないよ」

 溜息をついて、先生は脱力しながら言った。回転椅子がギィと再び唸る。

「先生は優しいからですね」

 先生はきっとそんなこと言っているのではないのだ。だけど、ぼくは言葉を逃がすようにして、話の的を逸らした。かわすのは得意分野だった。

「……キミは狡いよ、全く」

 呆れたように手の平で目元を覆う先生、ぼくはそのまま立ち上がり戸を引いた。

 狡い……確かに真っ当な人間を診てきた先生にとってはそうかも知れない、ぼくの生き方は。ぼくのやり方は。ルール違反の順番抜かしなのだから。

「おい少年、お前がどんな風に言い訳唱えようが自由だが、やらなきゃいけないことくらいわかっているだろ」

 それは疑問ではなく、確認だった。ぼくに対する確認。覚悟はあるのかとそう問われている気がした。

「ありがとうございます」

 ぼくは最後を挨拶で締めくくり扉を閉めた。全然締めくくれていないけれど。直ぐにお世話になるのはわかりきっているけれど。それでも言わなきゃいけない言葉はある。

感謝の言葉の裏側で、あるいは反対側で、彼女は笑っている気がした。

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