第56話 涙を拭ってくれる人
ラタトスク社から盗み出したデータの解析を、文矩の事務所で行うことにした。データはあまりにも膨大であるため、雲竜刑事率いる公安暗部の刑事たちと、文矩の古巣の検察庁の検事たちが応援に駆けつけてくれた。
「いやはや。これはすごいね…上級国民さんたちは日々を愉しんでおいでですなぁ…」
「…狼や亡霊だけじゃない。この世界には羊の血を啜る蛭も沢山いるってことなのね…ふぅ…平和って何…?」
俺とマリリンは政治家や官僚、あるいは大物芸能人やら評論家やら学者やらの醜聞データと睨めっこして、恐ろしくげんなりしていた。対して警察と検察の皆さんの元気な事元気な事。有名政治家さんがお薬キメてラリってる写真とかを見て、子供のようにはしゃいでる。ここにいる者たちは純粋に社会正義の実現に人生を捧げてきた者たちだ。巨悪を牢にぶち込めるチャンスに興奮してるんだろう。対して俺もマリリンも色々と権力の野蛮さに振り回されて疲れている側だ。見るのも嫌になる。
「でも
俺たちは闇の紳士たちの証拠の調査をやめて、ラタトスク社の取引や商品やアプリについての情報をあさっていた。もし不正な取引があれば、これでラタトスクの商売を邪魔してやろうと思ったからだ。だけど不正の類は全く見つからなかったのだ。ちなみにデータを漁っていたら創業初期のころのデータがあって、それによるとラタトスク社は起業したての頃は『クール・ルート』って名前だった。社名を縮めるとクルルト。すなわち
「ラタトスク社には粉飾決済もないし、商品のデータ偽装なんかもなかった。ビジネスに関してはまじで正々堂々がポリシーなんだろうね。枢への狂った恋心。そこがあいつの唯一付け入る隙だよな。俺たちはあいつのある意味健気で一途な思い故に自分たちのビジネスを守れるわけだ」
ラタトスク社は政治家や官僚、さらには犯罪組織とつながる巨悪なのだが、ビジネスそのものは全くと言っていいほど健全さを維持してる。同業他社なんかへの非合法な妨害やあるいは取引停止などの忖度系脅迫なんかは一切行っていなかったのだ。火威には正々堂々と戦って勝てる自信があり、同時にそうやって勝利することが枢への愛の証明になると頑なに信じているのだろう。本当にサイコ野郎だ。
「男っておバカなのね…。あれ?これって…。ねぇ。イツキ…。これを見て欲しんだけど」
ラタトレのアプリに関しては挙動が怪しすぎるので、可能な限りデータを奪っておいた。ただやはりあのサーバーには重要なデータがまるでない。基幹サーバーがどのように動いているかをリーバスエンジニアリングで推測しているのだが、まったく全貌が見えてこない。
「何かな…ウルザブルンサーバーからのデータ送信のログだね。…え?Kanzane_et_al.pdf…。おいこれって…?!」
ウルザブルンなる謎のサーバーから、俺の論文が送信されているログをマリリンが発見した。
「…間違いなくあんたが10年前に書いた論文よ。そしてこのPDFを送信した先はダークウェブの異能情報学フォーラムの掲示板。日付は1年前…!」
マリリンが肩を震わせている。目は見開かれて、今にも泣きそうなくらいに瞳が潤んでる。
「じゃあ論文流失の犯人はあのサーバーから送信してたのか?!うそだろ?!そんなぁ…」
ラタトスク社の基幹サーバーから論文を送信できる奴なんて、たった一人だけだ。すなわち火威が俺の論文を流出させた犯人!
「…どういうことなのよ…。なんであの論文はここから送信されてるの…。一体何なのよ…火威がやったの?…ならあいつは…間接的にあたしの兄弟たちの粛正の引き金を弾いたってこと?…何のよ…いったいなんなの!この悪意の深さは!!!」
マリリンは激高して机を思い切り叩いた。同じ部屋にいた検事と刑事たちが一斉にマリリンに目を向けた。俺はマリリンの肩を抱いて、会議室から外へ連れ出した。マリリンは泣いていた。それを誰にも見せたくなかった。
「マリリン…」
廊下に出た俺はマリリンの震える体を抱きしめて、その頭を撫でる。マリリンはワンワンと大声を出して泣いている。
「…何のよ…あの男…!許せない…!うう…。火威はあんたを恨んでた…。鉄丸が言ってたわよね…あんたの論文…カンザネetalが磐座教授を死に追いやったって。そんなの逆恨みじゃない…。あんたは愛する人を失って苦しんだのに…。あの男はあんたを本気で苦しめたいんだ…。あの論文の流出で世界中できっと沢山の人が政治的粛正の被害にあった…。あの男はそれを予測して論文を流出させた!!…確かにあたしはその犠牲者。だけど書いたあんただって…。こんなの酷過ぎる…。あんただって…いっぱい苦しんだじゃない…。なんでこんなことを…あんまりよ…」
マリリンは俺の背中に手を回して胸に顔を埋めてくる。あの論文のせいで沢山の人が死んだ。俺はどうやったらその責任がとれるのかなんてわからない。科学の発見は早い者勝ちだ。俺が見つけなくてもいつかはあの論文を誰かが書いてその罰を受けていたと思う。論理的に言えば俺に罪はない。だけどどうしても道義的責任を俺は無視できなかった。
「あたし知ってるよ。あんたが夜いつもうなされてるの。だって隣で寝てるもの。わかるよ。だからね、唸ってるときはいつもあんたの頭を撫でたよ。そうするとね。少しは声が小さくなるの。でもね。ゼロにはならないの…。『みつけてごめん。かいてごめん』っていつも誰かに謝ってたってあたし知ってたよ!!もういっぱい苦しんだのに…どうしてこんな…こんなの!!」
俺はこの子から論文流出の話を聞かされて以来悪夢ばかり見ている。顔も知らない誰かがいつも俺を責める夢。償い方がわからない。どうすればその罪が消えるのかがわからない。
「そうか…マリリン。ありがとうね…。いつも傍に居てくれて…ありがとう…!ありがとう…!」
視界が滲んでいく。涙が零れ出るのが止まらない。だけど俺の涙に触れるものがあった。マリリンの指が俺の涙を拭っている。
「イツキ。あんたは苦しまないで。あんたには罪はないのよ。だから罰なんて絶対に与えさせない。…やっとわかったの。あたしがあんたと出会った理由。きっと理不尽な罰を与えようとする者たちからあんたを守るため。だから神様があたしをあんたの所に遣わせて…出会わせてくれた。…きっとそうだよ…」
マリリンは涙を流しながら穏やかに笑った。そして涙が止まらない俺の目尻に彼女は優しくキスをしてくれた。
「泣かないでイツキ。…大丈夫だから。あたしはずっとずっとそばにいるからね…だから泣かないで…」
「…マリリン…。ありがとう…傍に居てくれて…ううっ…ああ…」
大の男がみっともないかも知れない。自分よりも遥かに幼い女の子に縋りついてワンワンと泣くなんて情けない。だけど今は。今だけは。こうしていたかったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます