第51話 牧羊犬は退廃に我慢できない!

 ラタトスク社への侵入に必要なもう一つの鍵を求めて、俺とマリリンは六本木にあるとあるクラブにやってきていた。本日は大学のイベサーが貸切ってウェイウェイとダンスイベントを行っている。2人とも大学生っぽい派手目の服装でクラブに入場した。そのダンスホールの喧騒を俺たちはガラス越しの割と静かなエリアのカウンター席から眺めていた。こういうセーフスペースは何処のクラブも大抵の場合、女性連れじゃないと入れない。バーカウンターでぼったくられるのがいやだったので、コンビニで買って黙って持ち込んだエナジードリンクで俺たちは乾杯する。


「実に退廃的な光景よね。ここいる女たちは世界には狼の群れがひしめいていることをしらない。そしてその女たちに群がる男たちはこの世界に沢山の亡霊たちが彷徨っていることを知らない。狼と亡霊から羊たちを守る牧羊犬たちがいつもこの星の何処かで命を捧げていることを知らない。…あたしと兄弟たちが成したことをきっと誰も知らないのね…」


 マリリンは気だるげで侮蔑的で、そして何よりも羨ましそうに、ホールで騒いでいる若者たちを眺めている。彼女が言う狼と亡霊とはこの世界の秩序を壊そうとする軍事勢力やテロリストたちの事だろう。マリリンはアメリカ軍兵士という牧羊犬として世界各地で戦い抜いてきた。米軍は確かにアメリカの国益のために戦ってはいる。だけどアメリカの作る平和によってこの世界は維持されているのも事実だ。マリリンは大義と平和の為に戦った気高き兵士だった。だけどそれを知る者は果たしてどれほどいるのだろうか?


「マリリンは軍に戻りたいって思ってる?」


「…いいえ。兄弟たちはもういない。政府が殺した。だから戻る気はない。でもね。兄弟以外の同僚、上官、部下。戦友たちはまだきっと何処かで戦ってる。あたしは逃げる他なかったけども、それでもね。何処か後ろめたさを感じてしまうのよ」


 マリリンはテーブルの下で俺の手をぎゅっと握ってきた。絡まる指の柔らかさに年甲斐もなく、心臓が高鳴ってしまう。クラブの極彩色に煌めく灯りと爆音のせいで、マリリンの指の感触はひどく官能的に思えたのだ。


「これからズルいこと言ってもいい?」


 いつもとは違う。何処か艶やかで挑発的な笑み。年下の女の子の可愛らしさではなく、男を挑発してやまない女という存在だけができる笑顔。


「いいよ。なんでも言ってくれ」


「きっとあんたといるのが楽しいから。だから後ろめたいのよ。だから全部あんたの所為よ。昔いた誇り高き戦場に、あたしは帰りたくないの。あんたがあたしを帰してくれないの」


 マリリンの少し潤んだ瞳に、確かな甘い熱を感じた。…このまま流されてしまいたい。俺はマリリンの頬に手を伸ばす。柔らかな頬を撫でて、親指で彼女の唇に触れる。マリリンは唇だけで俺の親指を甘嚙みした。そしてマリリンの瞳に淡い光が灯った。


「このまま続けたいけど、ターゲットが来たわ。…来なきゃいいのに…」

 

 邪眼がターゲットがクラブにやってきたことを捉えたようだ。


「オッケー。じゃあ手はず通りに」


 俺はマリリンの頬から手を放す。


『いぇーふぅううう!!盛り上がってるぅう!?』


『『『いいぇえええええいいいいい!!!』』』


 俺たちの座るカウンター席の近くにあるソファのVIP席にスーツの男たちと、そいつらと腕を組むドレス系ファッションの女子大生たちの一団がいた。そしてそいつらの近くで男子大学生が一気飲みをしていた。


「あれも日本の新卒就職活動ってやつかしら?実に馬鹿馬鹿しい光景ね」


 マリリンは本気で冷たい目を向けてその一団を見ていた。


「大学生なんて、情けないことにどこもこんなもんだよねぇ…。はあ。見ているだけで気が滅入る…」

 

 イベントサークルとリクルーターっていうのは時に繋がっていることがある。イベサーの男子大生は女子大生を大企業のリーマンに紹介して、就活での自分たちへの覚えを良くしてもらおうとし、女子大生は大企業のリーマンという安定していて人に自慢できる彼氏をゲットし、リーマン共は女遊びができて。というどうにも薄汚い光景。だけど今回はこれを利用することにしたのだ。


「あら。ターゲットがあたしのことに気がついてくれたみたいね。こっちに手を振ってるわ。…キモいわね…」


 マリリンは一瞬嫌そうな顔になったがすぐに余所行きの笑顔を浮かべて、サラリーマンたちに手を振り返した。なぜならば、その騒いでいるリーマンたちの中に俺たちの今回のターゲットがいるのだから。ターゲットは実に楽し気に女子大生相手に酒を飲んで楽しんでいた。


「はぁ…。ちょっと愚痴っていいかなマリリンちゃん?」


「なに?」


「俺らは会社創って命がけでビジネスしてるわけじゃん?なのに将来俺らの会社が大きくなって、面接にやってくるのはあいつ等みたいな馬鹿学生じゃん?まじで新卒採用やりたくないんだけど!」


「いいんじゃないかしら。あたしは社長の方針に全面的に同意してあげるわ。こんなところで騒ぐ大学生は一切採用しない。うちはコミュ力至上主義に一石を投じる意識の高さを売りにしましょう!」


 そして互いにエナジードリンクの缶を髙く持って。


『『我が社のますますの発展を願って…乾杯!!!』』


 俺たちは再びエナジードリンクの缶を激しくぶつけ合ってワイルドに乾杯して、一気に飲み干す。そして作戦を実行に移す。


「あんたっていつもそうよね!!」


 マリリンは俺に向かって大声で叫ぶ。


「なんだと!!」


 俺もまたマリリンに怒鳴り返す。


「あんたっていつもそう!あたしのアイスを勝手に食べてるし!脱いだパンツをそのままにしてるし!!ていうか謝りなさいよ!!アイス返してよ!!」


 ちなみに俺はマリリンのアイスを勝手に食べたことは一度もない。パンツも基本的に脱いだらすぐに洗い物ボックスに放り込んでいる。つまりこれはお芝居である。


「食べたアイスなら買ってやっただろうが!!」


「買ってやった・・・?!やった・・・ですって!!だいたいあたしが食べたかったのはイチゴ味だったに!!なんでバニラ味買ってくんのよ!間抜け!!馬鹿!」


「お前が買って来いって言ったのバニラ味だったじゃないか!!」


「あとでイチゴ味が食べたくなったのに、バニラ買ってきたのはあんたでしょ!!つーかこの間あたしのソースコード消したのまだ忘れてないからね!!このくそ野郎!」


「それはちゃんと謝っただろうが!!復元もしてるし!まだ根に持ってんのかよ!?」


 いきなり変なアドリブ入れてきた!?確かにソースコード消去したのは事実だけど。やっぱりまだ根に持ってる?!


「五月蠅い!!絶対に忘れない!!だからあんたのそばであの事件は永遠に蒸し返し続けてやる!!」


 マリリンはそう言って、俺の頬をびんたした。派手な音がフロアに響く。フロアの皆の視線が集まる。近くにいたリーマン軍団たちも俺たちに興味深げに目を向けている。…かかった!


「何すんだこの野郎!」


「なによ!いつもあんたって仕事仕事って言ってあたしに構ってくれないじゃない!!いつも夜遅くまで帰ってこないし!!あたしいつもあんた待ってるのに、夕飯一緒に食べてないのよ!!そういうのホント無理!!一緒に住んでるのにまるで一人ぼっちみたいな気分よ!家で一人で昼ドラを見るしかないあたしの気持ちわかる?!わかってないでしょ!!」


 え?こんなセリフ台本にないんだけど…。俺とマリリンは仕事はいつも一緒にやってるし。ごはんもいつも一緒に食べてるじゃん!それに俺もマリリンも基本定時で速攻家に一緒に寄り道もせずに帰ってますよね?なんでそんな世間の専業主婦みたいな愚痴が出てくるの?


「え…。あ…えーと。うん。なんかごめん…」


「謝って済む問題じゃないわ!!ちゃんとあたしの為の時間を作りなさいよ!!土日は家にいてもゴロゴロしてるばかり!!まるで大きな子供の面倒を見てる気分よ!!」


 ゴロゴロはしてないぞ?!俺たちは大抵の場合週末はキャンピングカー暮らしを利用して郊外の海や川や山に遊びに行ってる。


「…え…。うーん。俺は…そのぉ…いやぁ…かまってる方だよ…ね…?違う…?」


「結婚指輪!!!あたしまだ貰ってないぃいいいいいいいい!!」


「くそっ!ド正論が返ってきたぁ!!??反論できない!!」


「どうせあたしなんて給料三か月分の価値もない日陰の女なんだぁああああああああああわあああああああああああああんん!」


 マリリンは両手で顔を覆って泣きはじめる。もちろん演技だ。泣き声は本物っぽく聞こえるけど、さっきから舌をペロッと悪戯っ子のようにチラチラと出しているのが俺からは見える。俺を苛めて楽しんだね?マリリンちゃんは本当に悪い子だねぇ…。


「マリリン…俺は…」


 俺はマリリンに手を伸ばす。だがその手は突然現れた謎の手に払われた。俺がその手の方向に振り向くと、そこにはチャラそうな雰囲気のサラリーマンがいた。


「やめろ!女の子を泣かせてんじゃねよ!!このクズ!!」


 そこにいたのは今回のターゲットの男。以前会社説明会でマリリンに絡んできたリクルーター。ラタトスク社のエリート若手社員の福永ふくなが和剛かずたけだった。俺とマリリンが起こした喧嘩の芝居に引っ掛かってくれた!騎士気取りで顔見知りのマリリンを助けに来たのだ!きっとマリリンを落とすチャンスだと思ったんだろうね。救いがたい馬鹿である。


「あん?なにしゃしゃってきてんだよ!お前には関係ないだろ!」


 取り合えず俺は福永にできるだけチンピラっぽくイキってみる。だが福永は不敵に笑っている。


「あん?お前何調子に乗ってんの?てかこの間はよくも俺に恥かかせてくれたよなぁ…!くくく、お前今、女の子に手をあげようとしてただろ?皆見てたぞ!なあそうだろ?」


 福永はお仲間のサラリーマンたちと大学生たちに同意を求めた。すると彼らから『見てたぞ!』『殴ろうとしてた!』『さいてー!』等と俺を責める声が響き始める。俺は計算通りに一気にピンチとなり、そして俯いていたマリリンが顔をあげて、にんまりと笑って。


「ねぇ。あーしぃ!こいつの顔超見たくないんだけどぉ!みたいなぁ!ねぇ!こいつのこと追い出してよぉ!!」


 突然すごく頭の悪そうな喋り方で、俺をクラブから追い出すようにマリリンは福永におねだりし始める。そして福永はニヤリと笑って、近くにいたクラブの屈強なボディガードたちを呼び寄せた。


「おい!放せ!放せよ!!この野郎!覚えてろよくそ野郎!!」


 俺はボディガードに両脇を抱えられてしまった。見事に冤罪をかけられて、痛客として店から追い出されることになったのだ。引きずられていく。だが最後にマリリンと目が合った時、彼女は周りに気取られないように、親指をグッと立ててニヤっと笑った。マリリンはそのまま福永たちのソファ席にエスコートされていく。自然とグループの中に紛れ込むことに成功した。こうして作戦の第一段階は成功したのである。

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