10.春陽

 それから午前の授業を何とか終えて昼休み、僕は誰もいない屋上で外を見ながら心を休めていた。


 海峡では多くのタンカーが行き交い、水面はそれにゆら揺られキラキラと輝いている。近くの公園からはうぐいすが暖かさに喜ぶようにさえずっている。そんな春らしい陽気が支配する昼下がりの中、僕は数学に脳をやられていた。……正のベクトルってなんだよ。


 項垂うなだれて下を見ると、足元に弁当箱二つ。


……


「ごめん〜。古典の授業長引いちゃって遅れちゃったぁ」


 それからも少しの間休養、もとい現実逃避をしていた僕であったが、ドアの方から聞こえたふわふわした聞き馴染みのあるその声を聞いて意識を戻す。


「いや、そんな待ってないから大丈夫よ」


 そう言って振り返ると、そこには焦った顔をしていた幼馴染の春が駆けてきていた。どうやら僕を待たせていると思って急いできたようだ。


「ふぅ、待たせちゃったね。本当にごめん」


 少し息を上げながらも隣でちょこんと当たり前のように立っている彼女が、僕が謝ったにも関わらずにそう言ってくる。


 それが、いつもの“春の陽気“のように明るい春らしくなくて少し笑ってしまう。


「さっき来たばかりだから大丈夫だってば。弁当作ってきたから早く食べよ」


 少ししょんぼりとしている彼女を見ながらそう言って弁当袋を渡す。そしてドアの隣にできている日影へと歩を進めた。


 すると彼女は、手渡した弁当箱を見て笑顔に変化していっていた。それがまた花開くようなパァッとした笑顔でこちらをなんだか嬉しくさせる。あぁ、やっぱり春はこうでなくちゃ。


「ありがと!実は未来の弁当さ、久しぶりに食べれるから朝から楽しみしてたんだよね」


 そう言ってくれる彼女と共に、地面にまだ汚れが少ないところを見つけて腰を下ろす。それと同時に、待ちきれないのか春が弁当を包んでいた保冷バックを開いてブラウンの弁当箱を取り出していた。そのままパカっと蓋を取り外す。


「トマトも卵焼きも入ってるじゃん!未来の作った卵焼き甘いやつだからいいんだよね。うちは醤油ベースの少ししょっぱいやつだから」


 弁当の中身を確認した途端、春は感嘆の声を上げた。


「春って僕と一緒で本当甘党だよね。コーヒーも砂糖ドバドバ入れるタイプだし。ま、喜んでもらえて作った甲斐あったよ」


「甘味は正義だからね!……コーヒーはただ単に苦いからだけど」 


「コーヒー苦いなんてお子ちゃまだな〜」


 僕はそう言って卵焼きを口に入れた。甘み以外の何者でもない口内をお茶で流し込んでひとつ息をつく。春の味覚に合わせて作ったのだがいくらなんでも甘すぎたな。


 そう思いながら前を見ると、ぷくーと頬を膨らませている春と目があった。どうやら先程の発言についてご立腹のようだ。でもその顔がまた少し機嫌の悪い犬のように見えて余計可愛く見えてしまうから本当に困る。


「お子ちゃまじゃないし!それに未来だってブラック飲めないって言ってたよね」


 春もまた甘々卵焼きを食べながら、そっぽを向く。ただ、その暴力的な甘みに耐えきれないのかとろけるほどの美味しそうな顔をしていた。それがバレないように背けているのだろうけど、無意識で美味しい、と呟いているから大して意味を成してない。


 ただ、それに気づいていないふりをしながら、


「いや、そりゃ普通にブラック苦いもん」


 と、至極当然のことを口にした。


 それを聞いて、


「なんだかんだ未来もお子ちゃまじゃん〜」


 と、春は少しだけニヤリとしていたのだった。

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