1-3

 僕は教室の前の廊下で授業が終わるのを待っていた。長い廊下を行ったり来たり、せわしなく歩き回っている。数分に一回、バッグを開けて中身を確認する。そこには魔女から受け取った手紙が入っていた。仄かに甘い香りが漂ってくる。

 魔女はこれをエレナさんに渡せと言った。 魔女の真意は分からないが、ともかく僕はエレナさんに会うことにした。

 終業のベルが鳴り、教室からぞろぞろと人が出てくる。僕は人込みの中を必死に目を凝らした。そして、見つけた。


「エレナさん!」


 僕が呼ぶと、エレナさんはこちらを振り返った。振り向いた際に髪の毛がなびいて揺れる。同時に心地よい甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。僕の心臓がドクンと脈打った。


「今、私の名前呼びました?」


 エレナさんの口から発せられる声が僕の鼓膜を心地よく撫でる。僕は彼女の顔を直視出来ず、視線を逸らしながら手紙を差し出した。


「あの、ある人からこれを渡すよう言われて」


 エレナさんは不思議そうに手紙を受け取った。その時、一瞬僕の指が彼女の指と触れ合った。僕は弾かれるように手紙から手を離した。

 エレナさんは受け取った手紙をじっと見つめていた。すると、周りから人が集まってきて、エレナさんに話しかける。


「何?ラブレター?」

「相変わらずモテモテだねー」


 彼らの言葉を聞いて、僕は急に恥ずかしくなった。この状況を見た周りの人は、僕がラブレターを渡したと思ったのだろう。湧き上がる羞恥しゅうちに耐えられなくなった僕はその場から脱しようと背を向けた。すると、僕の腕が誰かに掴まれた。振り返ると、エレナさんが僕の腕を掴んでいた。


「ありがとう。ちゃんと受け取ったから、その人に伝えてくれる?」

「は、はい。わかりました。じゃあ僕は……これで……」


 可能な限り声を絞り出し、僕は逃げるようにその場を離れた。その後、家に帰った僕はベッドに飛び込んでバタバタと身をよじらせた。ネムが変な目で僕を見ていたが、僕は全く気にしなかった。


 *****


 僕は校内のカフェを訪れていた。人がいないテラス席の端っこで、ティーカップを片手に持ったまま、ボーっと外の景色を眺めている。頭の中は昨日のことでいっぱいだった。

 手紙を渡したまでは良いものの、それから先のことは全く考えていなかった。今思い返すと、僕が手紙を渡しに行ったのは魔女に頼まれたからではなく、エレナさんと会いたいという欲望が胸の奥にあったからかもしれない。気持ちだけが先行して、後先考えずに手紙を渡してしまった自分がいる。僕は自己嫌悪に苛まれて、テーブルの上で突っ伏した。


「ねえ、隣座っていい?」


 透き通るような声が僕の耳に届く。僕が慌てて顔を上げると、目の前にエレナさんが立っていた。


「え、あ、はい!どうぞ!」


 僕はキョドりながら隣の椅子を示すと、彼女は優しく微笑んで席に着いた。


「昨日、手紙渡してくれてありがとうね」


 彼女の言葉は、優しい音色でウィルの耳を包み込んだ。彼女の瞳はきらめきを帯びて、太陽の光を反射していた。ウィルは緊張しながら答える。


「いえ、僕はただ、届けただけなので」

「でも、届けてくれたのが貴方でよかった」


 そう言ってエレナは微笑んだ。僕は深呼吸して、自分の気持ちを落ち着かせた。


「それで、今日は手紙のお礼を言いに来てくれたんですか?」

「そうね。でも、それだけじゃないの」


 僕はエレナさんの口調が妙に甘い気がした。彼女の瞳は妖艶な雰囲気を醸し出している。彼女は僕を上目で見つめながら言葉を続ける。


「ウィル君、私、貴方とお話しがしたくて」


 エレナさんは僕の手を包むように握った。彼女の温かいぬくもりが伝わってくる。突然の出来事に僕は頭が真っ白になった。心臓が太鼓の如く鳴り響く。僕が何も言えずにいると、テーブルの下から声が響いた。


「あれ、誰だ君?」


 ネムがテーブルの上に飛び乗ってきた。僕とエレナさんの視線が黒猫に向く。


「あら、可愛い猫ちゃん。ウィル君の使い魔?」

「はい、そうです。ネムっていいます」


 僕はそう答えた。胸の鼓動が少しずつ収まっていく。ネムが入ってきたのは幸いだった。あのままでは理性を保てていたか分からない。


「初めましてネムちゃん。撫でてもいいかしら?」

「ん、構わんよ」


 ネムの頭を優しく撫でるエレナさんの姿を見ているうちに、ふと僕は違和感を覚えた。彼女の頬はほんのりピンク色で、うっとりとした表情をしており、瞳孔が大きく開いているように見えた。

 僕の中で情報が飛び交う。惚れ薬の噂、魔女が持っていたピンク色の液体、そしてエレナさんのこの様子。僕は魔女との会話を思い出した。『もし、エレナが貴方に興味を持ってくれたらどう思う?』と魔女は言った。

 集まった情報はジグソーパズルのように連なって一つの疑惑を作り出す。あの手紙には惚れ薬が使われていたのではないだろうか。


「ごめんなさい、エレナさん。僕ちょっと用事を思い出した」


 僕はそう言って席を立った。まずは真相を確かめる必要がある、そう思った僕は魔女のいる小屋に向かった。


 *****


 僕が小屋の中に入ると、魔女は前に来た時と同じように本を読んでいた。魔女は入ってきた僕に一瞥を投げ、こう言った


「事は順調かしら?」


 その言葉を聞いた僕は確信した。


「どうして惚れ薬を仕込んだんですか?」

「あなたがそう望んだじゃない」

「そんなこと言ってません!」


 僕は憤慨した。魔女は表情を崩さないまま言う。


「そう。気に入らなかったようね」


 魔女の言い方に僕は違和感を覚えた。まるで、僕以外の誰かは喜んだかのような言い方だ。


「まさか、惚れ薬を誰かに配ったんですか?」


 その言葉を聞いた魔女は微笑んだ。冷淡で、陰険で、邪悪な笑みだ。僕を嘲っているようだった。


「ええ、あなた以外にもう一人、惚れ薬を渡した」

「どうしてそんなことを……」

「貴方が知る必要はないわ」


 魔女はそう言って視線を本に落とした。これ以上は話すつもりはないといった様子だ。僕は複雑な感情を抱えたままその場を後にした。


 *****


 家に帰った僕はベッドに寝転んで考え込んでいた。魔女から話を聞いた今、エレナさんが誰かに惚れ薬を盛られているという噂の信憑性は非常に高くなっている。

 僕はこれからすべきことを考えた。惚れ薬のことを学校に告発した場合、僕は事情を詳しく聞かれるだろう。その際には手紙のことを話さなければならない。そうなると、僕も罪に問われる可能性がある。その場合、退学処分もあり得るだろう。そんなリスクは取りたくない。


「ウィル、これ何?」


 ネムの声を聞いてテーブルの方に視線をやると、ネムが何かを転がしていた。小さな小瓶だ。中にはピンク色の液体が入っている。それを見た途端、僕は勢いよく起き上がった。


「なんで?」


 それは魔女が持っていた惚れ薬だった。僕は急いでそれを手に取ると、窓を開けて外に捨てようとした。こんなものが家にあるとバレたら、それこそ本当に退学になってしまう。

 窓を開けた僕は腕を勢いよく振り上げた。しかし、そのまま投げることはなく、投擲の構えをしたまま静止した。瓶を持つ手が震えている。いつまで経っても投げる決心がつかない。結局、僕は瓶を机の上に戻した。

 次の日、僕は学校でエレナさんの姿を目にした。彼女の傍に一人の男子生徒がいる。エレナさんはその男と楽しそうに会話していた。彼女の目つきはどこか朧気で、頬は花弁のようにピンク色に染まっている。その時、僕の中で使命感のようなものが沸き上がった。

 帰宅した僕は小瓶の蓋を開けた。ピンク色の液体が揺らぎ、光を反射して煌めく。僕は針を指に突き刺した。赤い血が僕の指から滴り、小瓶の中へ落ちていった。

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