1-2
「…カー、ベーカー!」
僕は自分の名前を呼ぶ声に我に返った。同時に、教室内の視線が自分に集まっていることに気付く。教壇に立つメガネのおばさん先生が怪訝そうな目で僕を見ていた。
「ぼーっとしてる暇があるなら教科書を開きなさい。二十ページです」
「はい、すいません」
午後の授業は散々なものだった。どうも集中ができない。原因は分かっている。あの女性だ。僕は普段、異性にそれほど興味を持つことはない。しかし、彼女には特別な魅力があった。この魅力に気付いているのは僕だけではないようで、一年生の間ではかなり有名な方らしい。聞いた所によると、学年は三年生、名前はエレナ・ハミルトンとのこと。授業の後に図書館を訪れた僕は、偶然、彼女についての会話を耳にした。
「エレナさんってさ、彼氏いるの?」
そんな一言が聞こえて、僕は全神経を集中して彼らの会話を盗み聞きしようとした。ただ、彼らは小声で話しているのでよく聞こえない。そこで僕は本を探すフリをして会話をしている人達に近付いた。
「よく一緒にいる男がいるって聞いたけど」
「変な噂もあるよな。その男が惚れ薬を使ってエレナさんを
「それは流石に嘘でしょ。惚れ薬なんてそもそもどこで手に入れるの?」
惚れ薬という言葉に僕は一瞬ドキッとした。彼らの言う通り、惚れ薬は簡単に手に入れられるものではない。法律で素人の扱いが禁止されている準一級薬品である。
「さあ?もしかしたら……魔女とか?」
魔女という単語が出てきた瞬間、話をしていた人達は
僕もまさかそんな事はないだろうとは思った。しかし、心の隅では疑惑が消えなかった。ふいに今朝のバスの中で聞いた噂話を思い出した。
(魔女か……本当にこの学校にいるのかな)
僕はその場を離れ、
『アリアート魔術学校 見取り図』
机に広げてみると、かなり古い書物であることが分かった。所々ページが虫食い状態になっている。しかし、学校全域を詳細に記しており、校内のことを調べるには最適である。
(魔女がいるとしたらきっと人の出入りが少ない場所だろう。地下という可能性もあるけど、下水道には流石にいないだろうな)
僕は片っ端から、めぼしい場所を記録した。中には立ち入り禁止の場所もあったが、遠目から確認するだけなら問題ないだろうと判断した。別に魔女に会うことが目的でない。例の噂を確認するためである。
「……ん、これは?」
ページの一部分だけ妙に綺麗な紙が使われていた。ページが破れたので新しい紙で補ったと考えれば自然だが、何ページかよく観察してみると、新しく補われた部分は全て同じ区画だけであった。さすれば疑惑が生まれる。これは故意に破られたのではないか、と。学校の端に当たるその場所には周りには特に危険な施設がある訳でもなく、建物が取り壊されたという記述もない。その後、この場所を含む幾つかの場所を記録して、僕はその場を立ち去った。
*****
僕は目星をつけた場所をしらみつぶしに回っていた。墓地や森の中、立ち入り禁止区域の中にも少しだけ入ったりもした。しかし、それらしいものはなかなか見つからなかった。ちょうど正午の鐘が鳴り、今日はそろそろ終わろうかと考えたころだった。
(次は……あの場所か)
僕は例の疑惑の場所に向かっていた。そこは川沿いの道で、建物の陰に隠れており、やけに涼しい場所だった。しばらく進んでいると、川にかかる長い石橋が目に入った。橋の奥は霧がかっていてよく見えない。ただ、それ以外は特に何かあるわけではなさそうだった。少し期待していただけに、この有り様に僕は落胆した。午前中はずっと歩いていた分の疲れがドッと出る。加えてお腹も減っていた。
(もう帰ろう)
僕は元来た道を振り返った。すると、橋の傍に小さな階段があることに気が付いた。きっと下の川に降りる階段だろうと思ったが、ふと橋の下を見てみると、石造りの小屋が崖沿いに建てられているのが見えた。
まさかと思った僕は急いで階段を降りた。小屋の外見はシンプルで、三角屋根から煙突が伸びている。外壁に蔦が伸びており、古めかしい雰囲気が漂っている。窓にはカーテンがかかっており、中は見えない。
僕はドアの隙間から中が見えないか探ったが、本棚らしいものが見えるだけで、ほとんど様子が分からない。扉を開ける勇気はないが、かと言ってここまで来て何せず帰るという選択肢は取りたくなかった。僕は自分の人差し指と中指を舌で舐め、素早くドアに円と幾つかの線と文字を描いた。ドアが透けて薄っすら向こう側が見えるようになる。壁に並んだ2つの本棚、窓際に並ぶ奇妙な観葉植物、火の消えた暖炉、燭台が置かれたテーブル、その傍にいたのは十五才くらいの少女で、灰色の髪に若葉色の瞳。ウィンザーチェアに腰かけて本を読んでいた。それは一つの絵画のようで、僕は放心してしばらく彼女を見つめていた。
"ギギィ"
突如、ドアが開いた。僕は驚いて動くことが出来ず、固まったまま少女と対面した。少女は本に視線を落としたままで、こちらには一切目もくれない。僕が何も言えずただじっとしていると、少女はふと顔を上げてこちらを見た。そして、予想もしていなかった言葉を口にした。
「何してるの?早く入りなさい」
「え、いや、別に僕は……」
僕は動揺してしどろもどろになった。同時に、今更ながら身の危険を察知する。さっきドアが開いた時、彼女が何かした様子はなかった。加えて言うなら、扉に何か魔術で細工されている様子もない。あれは魔法だった。彼女は魔女だ。と、僕は確信した。
(部屋に入ったら何をされるか分からない)
僕は初めて魔女という存在に
「入りなさい」
彼女がそう言うと、僕は何かに背中を押されて部屋の中へ突き飛ばされた。同時に部屋のドアが閉まる。僕が
「何の御用かしら?」
「いや、何も、ただ、僕は興味本位で……」
僕がそう返答すると、少女は目を細めて僕を見た。その瞬間、僕は心臓がキュッと締まったような錯覚に陥った。
「……貴方も、エレナのことかしら?」
魔女の口からエレナさんの名前が出たことに僕は驚きを隠せなかった。僕の表情を見て、魔女は納得したように頷いた。
「そう。やっぱりね」
僕は図書館で耳にした噂を思い出した。エレナさんが誰かに惚れ薬を盛られているという噂だ。今の魔女の言い方から、彼女はエレナさんについて何か知っているようだ。
「エレナさんのこと、何か知ってるんですか?」
気が付けば僕は魔女に問いかけていた。さっきまでの恐怖はどこかへ消え去り、頭の中はエレナさんのことでいっぱいだった。
「あなたは……エレナに興味を持ってるみたいね」
魔女は更に言葉を続ける。
「もし、エレナが貴方に興味を持ってくれたらどう思う?」
「それは……嬉しいですけど……」
魔女の問いかけに、僕はおずおずと答えた。
「そう。分かったわ」
魔女はそう言って天井に向かって手を掲げると、天井近くの棚の戸が開いて小さな小瓶が飛び出し、ゆっくり彼女の手に降りてきた。小瓶はピンク色の液体で満たされている。
「手を出して」
魔女は僕に言った。僕が手を前に出すと、途端に指に鋭い痛みが走った。指先を見てみると、小さい赤い血だまりが滲み出ていた。その血だまりはふわっと浮かび上がり、魔女の手元へ吸い寄せられていく。部屋の照明の光を受けた血は白く輝いていた。魔女が瓶の蓋を開けると、浮遊していた血はその中へ入っていった。
魔女が瓶を軽く振っている間に、今度は机の引き出しが開き、中から便箋と封筒がふわりと出てきた。机の上の羽ペンが勝手に便箋に文字を連ねていく。魔女は本に挟まれている
僕は目の前で起こる数々の不思議な力に言葉を失っていた。魔女や魔法の話は学校の授業以前に、母が語る童話の中にも登場していた。幼い頃は想像の中で魔法に触れたのだが、まさに今、現実で魔法に触れた僕はある種の感動を覚えていた。
「これを貴方に預けるわ」
そう言って魔女は封筒を差し出した。僕が恐る恐る手紙を受け取ると、その瞬間、得も言われぬ甘い香りが漂ってきた。
「これは……何ですか?」
「エレナに渡してあげて」
魔女はそれだけ言って再び本を手に取った。その瞬間、地面がグラッと揺れたかと思うと、床に亀裂が走ってガラガラと崩れ始めた。僕は慌てて椅子から立ち上がろうとしたが、床は完全に崩壊し、僕は暗闇の中へ落下していった。
気が付くと僕は広場のベンチに座っていた。横にはネムが丸まって寝ている。今まで見ていたのはどうやら夢だったらしい。拍子抜けしたような、ちょっと残念なような……そう思って立ち上がろうとすると、僕は地面に何かが落ちていることに気づいた。僕がベンチの下を覗くと、そこには封蝋された手紙が落ちていた。
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