第244話 天の川と輝く君に


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 空は青く澄み渡り、白入道が高きを示す。更にそれよりも高き場所からの猛射が、僅かに雨の匂いを残すランジグの町をじとっと焼きあげる。


 行き交う人々が元気と喧騒でうだる暑さを殴り飛ばす、例年通りのこの季節。


 滴る汗がラーテルの尾に沁み込んでいき、少しでも蒸れた熱気から逃れようと気分以上にフリフリ動かす小さな娘。


 商店街を抜けて、大きな用水路が流れる橋にまで来れば多少は涼やかになるかと淡い期待もしていたが、実際の所増量中のせせらぎに反比例するように蒸し暑さが増した気がするだけだった。


 そんな些細な裏切りが、齢六歳の小さな身を更に苛立たせる要因になっていたのかもしれない。


「もうこんな危ない事したらあかんにぃ~?ジェニはまだ小さいんやから」


「危なないもん!買いもんくらい楽勝やもん!」


 手を繋ぎ石橋を渡る親子が一際衆目を集めていた。特に母親の方だ。


 一目でやんごとなき品だと分かるタイトで煌びやかなワンピース型のドレス。宝石などの装飾も惜しむことなく使われ、足先に至るまで妥協が無い。


「こんな遠くまで来て迷ったらどうすんのぉ?」


 そんなドレスに着られることなく、寧ろ着こなしてしまう気品と暴力的なボディーライン。胸の膨らみも腹のくびれも適度に引き締まった尻も、どんな彫刻よりも芸術的で。


 腰まで伸ばした白銀の長髪が歩みに合わせて揺れ踊る。本当に人間の髪か怪しいほどの艶やかさだ。


「帽子も被らんとぉ水筒も持たんとぉ~前話したったやろぉ~お母さん日射病で気ぃ失いかけた事あるってぇ日射病は怖いんやにぃ~?」


 二十代前半にして全盛。隣に同じ遺伝子を色濃く感じさせる愛らしい幼女を連れてさえいなければ、とても経産婦だとは思われないだろう。


 それ程見るからに明らかに高貴な二人組が護衛もつけずに街中を歩いている異常事態に、人攫いでさえ度肝も毒気も骨も抜かれて見惚れていた。


「まだ一人じゃ危なっかしいんやから。それに寂しんぼやで、途中で心細ぉなって泣い、」


「うっさいうっさい!泣いてへんもん!私ぼうけんしゃやもん!」


 さて小さな娘。母親の小言に嫌気がさしたのか、愛くるしい姿には対照的な表情でその手を振り払うと同時にばっと飛び出し、自分の背より高い欄干に飛び乗った。


「こんなんだって簡単や!」


 石橋と言えども街中に数多と存在する内の一本。その欄干の幅は握り拳程と、足場としては心許ない。


「ジェニ危ない!降りな!」


 娘は頬を膨らませて母親をむすーっと睨むと、ピンと伸ばしてバランスを取っていた腕を下ろして脇を閉じ、ダッと凄まじい初速で欄干の上を走り出した。


「オカンでも出来やんやろ!」


「ジェニ!」


 母親も慌ててその背中を追いかける。


 つるっ


「あっ!」


「ジェニ!!!」


 ちゃんと自分を見ているか、ちらちら振り返って確かめていたせいで、足元への注意が散漫になっていた。その結果、欄干から滑り落ち、二メートル程下の用水路へ頭から……


 バッシャーン!


 街の用水路といえど、この辺りの川幅は五メートル、水深は一〜二メートルにもなる。幼い身には一級河川にも等しい大運河。


 こぽこぽ耳を通る泡音と、紺色と水草が入り混じる。


「ごぽぽ!!ごぽたぁっっ!!こぷぷぷぷ……!ぷあったってぼぼぼぼ……!!」


 更に運のない事に前日の雨で水嵩も増しており、そのせいか川底の石などで生じる捻じれた流れが幾重にも折り重なって乱雑に身を引っ張った。


 届きそうだった壁が、目指すべきだった水面が、何度も逆さまにひっくり返って感覚が壊れていく。次にいつ水面から顔を出せるのか分からない不安が加速する。


 小さな子が流された。元々視線を集めていたというのに大人は誰も飛び込まない。それもそのはず、幼女が落ちたすぐ先はダムのようになっており、落差三メートル超えのちょっとした滝になっていた。


「……こぽ…………」


 このまま飛び込めば自分も諸共滝に落ちてしまう。浮きになるものを投げようにも落ちた先で上手く掴める可能性が低すぎる。


 水難救助は至難の業だ。泳ぎに自信のある者でもパニックを起こした要救助者にしがみつかれてしまって道連れになるケースが多い。


 それならばと母親は咄嗟の判断で下流へ走った。苦虫を嚙み潰したような表情で。滝に落ちるまで耐えてくれる可能性にかけた次善の行動だった。


 バシャーン!!


「!!」


 音につられて水面に目を向ける。白い泡沫が伝えている。誰かが後を追って飛び込んだのだと。






**********






 くるしい……あかるいのに、くらい……どっちに行けばいいかわからない……泳ぎ方もわからない……


 くるしい……くるしい……どんどん、どんどん……くらく……くるっし…………


 ……こわい。


 っっ!?


 誰かの……うで……?あたたかい……


「ぷはーーーーー!!!はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ……!!」


 後ろから抱きかかえられている感触を感じる。ちゃんと息が出来るように巻き足で支えてくれている水の流れを感じる。


「前を見てみて」


 耳元から感じる言葉通りに顔を拭って前を見る。滝。直前。


「ぁぁぁぁぁああ!!」


「僕がついてるから安心して、大丈夫さ!行くよっ!」


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


「いやっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!!」


 ザッパーーーン!!


 …………


 ……


「ありがとうお兄ちゃん!でもごめんなさい!」


 楽し気な笑い声と穏やかになっていく流れに揺られながら、すっかり浮き輪代わりになっている腕を頼りに振り返る。


「ふぅー!……なんで謝るのさ!」


「?」


 濡れた犬のように頭を振り、灰色の髪から水滴が舞う。黄緑色の瞳が、長いまつげが、染み一つない肌が、何かの魔力を持っているかのようにこの目をひきつけた。


「だって、楽しかったろ!?」


 何よりその笑顔が後光よりも輝かしくて、鮮烈に染みついた。あれだけの恐怖を味わった直後だというのに、気が付けば口だけで「うん」と言っていた。


「良かった。僕も泳ぎたかったし、ウィンウィンってやつさ」


「うぃんうぃん……」


 初めて聞いた言葉。初めて聞いた概念。しかし何となく意味は分かったし、そこに「君も助かったし」や「子供を助けられたし」などという文言が無い事が不思議と印象深くて。


「うぃんうぃん!!」


「そう!ウィンウィン!二倍勝つ!楽しいの方程式さ!」


「うぃーん!!」


 ノリとテンションに任せて両手を振り上げてみた。


「あぁぁ……」


 それを認めたのだろう。やや下流側に、安堵にくずおれる母の姿が見えた。


 滝の上に比べて随分と穏やかになった流れに任せる間に、いつしか頭上を石橋が覆った。


「ねぇ見て!」


 彼が指さす。


 真昼間ギラギラの陽光が水面に反射し、光が橋の下に揺らめくそれは、橋の陰という僅かな夜に、燦然と現出した星々のようで。


「きれい……」


 讃嘆と。


「君の髪みたいだ」


 讃嘆と。でも意味がよく分からなくて……だって、遊ぶのに邪魔になるからと文句を垂れて、男の子と見紛われるほど短く切っていたから。


「今でも素敵だけど、せっかく星の光の髪なんだ。伸ばせばもっと素敵になるよ。天の川みたいにね」


「……」


 だから、女の子として褒められたのが嬉しくて。


「保証するよ、ぜぇったい似合う!」


 彼の笑顔を、ぼーっと見つめる。


 川に落ちただけでなく、滝に落ちただけでなく、恋にも落ちてしまっていた。


「そろそろ上がろっか!このまま海までどんぶらこしちゃったら普通に死んじゃう」


 私を道に登れる場所まで連れていこうとする彼は、「カナリアさんも心配だろうし」と続けている。その言葉にハッとして……


「ぐすっぐすんっ」


「えなんで泣いてるの!?」


 彼は驚き、泳ぎを止める。


「……私なっバウムクーヘンめっちゃ好きなんやけどなっ、オカン絶対怒っとるから、絶対もう食べちゃあかんってな、絶対言われる……」


「あはは――――」


 なぜか笑うと、


「じゃあ僕が今度奢ってあげるよ」


「ホンマ!!?」


 感情に合わせていつものように地を蹴ろうとしてスカる。


「好きなだけね」


「さいっこう!!あっ!」


 私は小指を差し出す。彼も懐かしむようにそれに応じる。


「「ゆ~びき~りげ~んま~んう~そつ~いた~ら」」


「しばくぞ!」


「シンプル!」


「ゆ~びきった!」


 ニシシと笑うと、彼も彼で楽しそうに笑った。


「なぁ私んちこやん!?すっごいもんいっぱいあんで!今日はオトンもおんで!」


 ぐいっと腕を引っ張る。


「え行く……マジかよ、もう時間……!?」


「?」


「ごめんね、僕そろそろ帰らなきゃだ」


「えぇ~!こんっっっなでっかい剣とかあんで!」


「行きたいけど……!またいつか会ったら、その時はもう一回同じように誘ってあげて」


「……うん!」


 本当は力尽くでも引っ張っていってやりたかったけど、少しでもいい子に思われたくて、いつにもなく意地を張った。


 そんな機微はお見通しだったみたいで、小さく微笑んで頭を撫でてくれた。


 私が用水路の壁に手をつくと、彼は一旦ザブンと潜り、下から私を肩車する要領で持ち上げてくれた。道に手が届いたので、ずしっと濡れた服の重みを感じつつもよじ登った。


 振り向くと、何故かまだ登ってこない彼に漠然と不安になって、


「なぁ、私の事覚えとってくれる!?」


 彼は、それはそれは嬉しそうにニコッと、私の脳髄のうずいに消える事のない刺青を残していった。


「またね、ジェニ」


 すっ


 次の瞬間には、もうその姿は無かった。


「ジェニ……!!」


 濡れた体も厭わずに駆け寄って来た母に抱きしめられる。


「なぁオカン消えた!!なぁなぁなぁ消えたんやけど!!」


「あらっホンマやねぇ~。シャイな子やったんかなぁ、まだお礼言えてへんのに……」


 言いたいのはそう言う事じゃないのだけど、そうだったのかなとも思ってみたり。


「わたっ……言っといた!ありがとうって!お兄ちゃん嬉しそうに笑っとった!」


「そっか!ふふふっ」


 母はジェニの頭をわしゃわしゃ撫でる。


 それを見て、


「オカン、ジェニもオカンみたいに髪伸ばす!」


「ええのぉ?切ったばっかやん」


「ええの!」


「ジェニ、癖っ毛やで大変やにぃ~?」


「ええもん!」


「じゃあ、髪の毛のお手入れの仕方知りたい子~!」


 母が手を振り上げる。


「は~い!」


 それに答えて勢いよく。


「ふふっ、家帰ったら一緒にお風呂入ろなぁ~」


 居てもたっても居られず一目散に走り出し、母の手を引きに戻って来た。


「はよーオカン!おいてくで!」






【余談】

ランジグは北と東に山がある(南にもあるが遠い)為、川は基本的に西の海に向かって流れる。

たたら製鉄などが盛んな西弓区を通るので、その過程で汚染が進行する。

上下水道は分けられているが、水路を分けているだけで垂れ流しである事には変わりない。

ジェニが住んでいる東王区やアニマが住んでいる南戦区では上下水道の整備が進んでいるので、道を歩けば上階から糞尿が降り注ぐなんて悲劇は殆どない。

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