第234話 天使とペテン師⑦


 ぎぃ……カッチャン……コツ、コツ……コツ……


 扉が閉められ、硬い靴底の立てる音が遠ざかっていく。


「……たしゅ……けつぇ……」


 体中を駆け巡る痛みに視界は潤み、地べたで潰れた頬では碌な発音も出来やしない。


 痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……痛い……


 全身を殴られ、蹴られ、絞められ、骨も折られた。指は全てが爪を剥がれ、明後日に曲がり、腕も足も関節すら無視して、糸の切れた操り人形のように力なく横たわる。


 折れてない骨を探す方が大変なくらいだ。顔も至る所が腫れ、鼻血と切れた口の血で顔の半分が生暖かくて気持ち悪い。


 奥歯も砕けて、破片が血に混じる。


 なんで?どうして?疑問は尽きない。けどその全てが深く刻まれた恐怖に上書きされる。この震えが治まる時なんてきっと来ない。


「たう、けつぇ……」


 剣を抜く事すら出来なかった。突然の暴力に何も出来なかった。


 音もなく流れ落ちる涙と共に、僕は魂の天の川へと消えていった。






**********






「……失敗だ。念の為致死性を低く抑えたウィルスだったとはいえ、終息が速過ぎる」


「レリークヴィエ家め……大人しく宗教ごっこだけしていればいいものを……!」


「しかしどうやったのかしら?いくらレリークヴィエ家とはいえども、新開発のウィルスだったのよ?まさかこの短時間で特効薬を開発できるだけの人材がいるとも考えられないし」


「あぁ、そんな奴が存在すれば天才どころの話ではないな」


「我々以上のコンピューターと、我々以上の施設を持っているとしか……」


「そんな訳ないでしょう」


「では誰かが我々用の特効薬をリークした……とかね?」


「……」


「……」


「これはあくまで噂レベルの話だが、当代の聖女が病人を癒して回ったとか……手をかざすだけで回復したと」


「エルエルちゃん、あの可愛らしい子でしょう?以前見た事あるけど、置物というか……宗教的シンボル以上の何かがあるとは思えなかったわよ?」


「もう一つ。神と呼ばれる少年が同行していたと」


「何それ、ほんと信者って馬鹿馬鹿しいっ!頭おかしいんじゃないの?」


「んっん゛ん」


「……失礼」


「どれも確証は無いが、現にエルエル・レリークヴィエは天使と崇められ、導きの聖女と呼ばれたサリウリ・レリークヴィエに匹敵するほどの支持を得ている。今や無視できぬ存在だ」


「無視できぬ、ねぇ。議長、回りくどい言い方は止しましょうよ。殺す、もしくは無力化する。そういう話でしょう?肝心なのは、どこへ行っても大注目の天使様をどう殺すか」


 管理棟はクリーチャーズマンションの管理を任された者達で運営されている。だからこそ、大衆の信用を失うような下手な手は打てない。


 それも、大衆を救ったヒーローである天使に危害を加えたともなれば、正義を失う事になる。


 コツ……コツ……


 静まり返った廊下に、硬い靴底の軽快な音が響く。その音は、寸分違わぬ完璧なリズムで徐々に近づいてくる。


 ウィン


「なはははははは!やっぱり遅刻してしまったみたいだね!迷子になっていたんだ!どうも案内が少なくていけない!皆さんもそう思われるでしょう?」


 やたらと上機嫌な男が入って来た。整髪剤で程よく整えられた髪型。びしっとスーツを着こなした清潔感のある美青年。手足が長いのか、スラッとした印象を受ける。


「誰だ?」


「これは失礼!僕はカーネル学会の現代表を務めております、アニマと申します。前任のガーガ氏に代わり、本日から出席させていただく運びとなりました。

 ご存知の通りガーガ氏は実直を絵に描いたような方でしたが、僕は冗談や悪戯が好きでしてね、不名誉な事に仲間内では奇術師だのペテン師だのと呼ばれております。どうぞ、お見知りおきを」


 軽妙なトークと綺麗なお辞儀からは親しみ易さが溢れ、一瞬にして場の緊張が和らぐ。


「それでは遅刻のお詫びに簡単な手品をご覧に入れましょう!なぁにお時間は取らせませんよ。種も仕掛けもない簡単な手品ですから」


 大仰な仕草を取るアニマの眼が、初老の男性を見て鋭く光る。


「報酬が足りない。AIに任せられない責任ある仕事だと言うのに、余りにも対価が少ない」


 中年の女性を見る。


「肉を食べたい。味気ない栄養食ばかりではなく、本物の肉を頬張りたい」


 更に、会議に座る者達を順番に見ては、「言い表せない空腹感に苛まれている」「幻想の刺激になれてしまった。現実の刺激が欲しい」「贅沢の一つも出来ない」などと一言添えていく。


 言葉を受けた者達は誰もがぎょっとした顔をしていた。それもそのはずだ。完全に初対面のはずの男が、


「不満を言い当てる、という手品でした」


 驚き、疑念、畏怖、尊敬、幾つもの色が渦巻いていたが、共通して刻まれた印象は一つ。


 只者じゃない。


 それが彼とのファーストコンタクトだった。


「場も温まった所で、お近づきの印に簡単なライフハックをお教えしましょう!世の中のあらゆる問題を解決してしまう本当に便利で、簡単な小技を!」


 今やアニマの一挙手一投足に視線が集まっている。


「人でなければいい」


 …………


 静寂が続く。それでもアニマと名乗った青年は堂々と佇んでいる。


「……すまない。意味が分からないのだが」


「ええ、これは皆さんの興味を引く為の掴み。勿論説明に移らせていただきますよ」


 そう言って、彼は手持ちの小さな鞄から、何かのどす黒い液体が入った注射器を取り出した。


「仕込みを疑われてもつまらないので、あなた」


 丁度近くにいただけの男の腕に、問答無用で針を刺した。液体が流れ込んでいく。


「何をする!?」


 会議室にざわめきが広がる。だがその驚きは、違う驚きで上書きされることになった。


 刺された腕を抑えていた男が苦しそうに両手をついたかと思えば、その腕から茶色い毛がわさわさと伸びて、ゴキッバキゴキッと骨格が変わっていく。


「魂という言葉に未だ馴染みは無いでしょうが、我々カーネル学会はこの魂を証明しました。人の体は、肉体と、精神と、魂の三つで構成されている。人として存在している魂の、“人としての輪郭”を一時的にあやふやにすることで、在るべき形に変形した魂に、肉体が寄り添っていく」


 筋肉が発達していき、全身を体毛が覆い、犬歯が唇から突き出る。


「彼の場合、強者として君臨していたい、自分の力を誇示したい、という思いが強かったのだろうね」


 びりびりに破けた服を身震いで落とし、首の周りを覆うたてがみが揺れる。発達した前腕で威風堂々と立つ姿は、百獣の王と呼ばれるに足る迫力だ。


「本来は魂に干渉する薬なんだけど、御覧の通り殆どの場合獣に変わる。故に“獣化薬”と言ってね。まぁ人は人が思ってる以上に獣なのかもしれないってね」


「なんと…………」


「ふ、ふざけるな!」


「変化に憤る気持ちは分かりますがね。その変化を利用してこそのエリートでしょう?柔軟さを失った頭に価値はない。お互い、老いには気を付けましょうね。おじいちゃん」


 太った眼鏡議員が初老の議長へと眼光を光らす。


「老いが怖いなら、若き姿を、老いぬ身体を、望めばいい!獣化薬にはそれが出来る!」


 再びアニマへ注目が集まる。


「質問よろしいか?その獣化薬によって現在この部屋には猛獣が解き放たれている訳だが、対策などはおありなのかな?」


「それについてはご安心を。獣化した人間は、完全に野性に還らない限り人としての意識を残してるんだ。今の彼は、まぁサーカス団のライオンよりかは安全なはずさ」


「理解した。感謝する。これ以上の嫌疑は時間の無駄だろう。先ほどの発言、「人でなければいい」について説明願おうか?」


 アニマは意味深な笑みを浮かべ、皆の意識が集まり切るのを待つ。


「人の法は、人にのみ適応される。獅子と化した彼が人を食おうと、それは事故に過ぎない」


 ざわっ「また、」


「我々が彼を殺そうと、それは殺処分に過ぎない。刻んで、焼いて、食べても、それは食事に過ぎない」


 警戒心を顕わにぐるると呻るライオンに、安心しろと手のひらを見せる。


「つまり、殺したい人間が居れば、殺してもいい動物にすればいい!肉が食べたいのなら、食べてもいい肉に変えればいい!」


 露骨な反対意見は出ようはずもない。ここに居る者は、既に一度私欲で大衆に牙をむいている。そのタイミングを読んだかのように、その心理をついたかのように…………


「人が人を食べるからカニバリズムは大罪なのであって、口に入れた香しい肉がかつては人間だったかなんて、些細な問題に過ぎないのさ」


 最後の枷をも、丁寧に解いていく。ペテンで固めた甘いマスクのその下に、闇より暗い笑顔を隠して。






【余談】

精神は肉体に、肉体は魂に、魂は精神に影響を受ける。

勿論存在としての核である魂が精神から受ける影響は、精神が肉体から受ける影響には及ばない。

その為、獣化薬で変身した姿は表層の意識ではなく、深層も深層、その個人の核となる想いが反映される。

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