第232話 天使とペテン師⑤
「えぇウィルスと言ってもですねぇ細菌の一種である事には変わりない訳ですので、ある程度水で洗い流すことは出来るんです。
まぁね、指のしわやらね、爪の間やらはそう簡単には落ちませんから。あと顔ですね。手洗いうがいと言いますが、顔まで毎度は洗いませんよね?
こちらは特殊な塗料をウィルスに見立てた映像ですがね、見てこれ、ね、凄いでしょ。外を歩いてるだけでこんなんなっちゃうんだから、消毒、消毒がどれだけ大事かってね――――」
ビル上部に備え付けられた巨大モニターの声が、街並みを賑やかす。いつもなら騒々しい交差点も、今はがらりと人が少ない。
「なにしてる!!!」
三十後半のおじさんが、遠くから顔を隠した少女に声をかける。
更に少女を遠方から怒鳴ろうとしたおじさんは自分が注目を集めている事を察すると、バツが悪そうに近づいていき。
「お前んとこの母さん感染したんだろ?なんで出て来た?他の人に移したら大変だろ?」
鞄から取り出した霧吹きで、少女に消毒を吹きかける。
「やめておじさん」
少女はフードを手で抑えながら、か細い声を出す。
「強い奴はおじさんもこれしか持ってないんだ」
おじさんは少女のフードやマスクも外して、
「つめたっやめっ、ブッやめっ!ぶゥっぺっごほっやめて!」
「我慢しなさい」
「やめなさい!!」
これ以上は見ていられなかったエルエルが待ったをかけた。
「貴方がしていることは暴行罪よ!!!」
二人の間に割って入り少女を庇う姿は、三年前と比べて随分と成長した。少女の目から見ても僕の目から見ても、グラマラスなお姉さんだ。立派なお姉さんだ。
「ほらっ綺麗な水だから、これで目を洗って。そう、上手よ」
少女はエルエルから受け取った水で消毒と涙を洗い流す。
「おい君、離れなさい!この子は母親が感染してる!濃厚接触者だ!君マスクは!!?今すぐ離れるんだ!!」
おじさんはエルエルがマスクをしてないと気づくや、エルエルの首根っこを掴んで思いっきり引っ張る。お陰でエルエルは尻もちをついて。
「この子だってお日様の光くらい浴びていいじゃない!!」
「こら暴れるな!離れるんだ!」
「そうやって何でもかんでも消毒して家の中に閉じ込めてたら誰だって病気になるわよ!!そもそも!!私は病気も治せるの!!」
ジタバタ藻掻くも、お尻をついて引きずられている状態じゃ、大の男には敵わない。
「はぁ?あの子はおじさんが家まで送っていくから、君も早く家に帰りなさい」
「話くらい聞いてよ!!!大人でしょ!!!」
自分の話と少女の話、二つのニュアンスが含まれていた。
エルエルの叫びは、しかし受け入れられず、おじさんは手を離さない。
「退こうエルエル」
「でも!!!」
「退こう」
「……」
エルエルの首根っこを掴むおじさんの手に自分の手を添えて、エルエルの眼をじっと見つめる。
「……分かったわ」
「ぐすっ……ぐす……」
水の入った水筒のコップを力なくだらりと持ち、飲むでもなくそれを見つめて鼻水を啜るエルエルを、さてどう慰めたものか……
「聖女教でーーーす!!」
遠くからそんな声が聞こえてくる。
「聖女教に入信しませんかーーー!?」
どうやら若い信者達が、古式ゆかしきビラ配りをしているようだ。
「――――当代の聖女様であられるエルエル様は神の遣わした天使と呼ばれ、生まれてこのかた一度も病を患ったことが無いと言われています!!エルエル様の加護を受けた者は怪我や病が回復したとまで――――」
意外にも大勢の人だかりが出来ている。半信半疑の者もいれば、熱心に聞き入る者も。
人々の心が弱っているこの時だからこそ、神というものの姿が大きく頼もしく見えるのだろう。
「エルエル様は現在神の使命を承り、世直しの旅をしておられます――――」
……違う!お前らいいように言いやがって!
「エルエルは
コップがエルエルの手から落ち、入っていた水が地面に散らばる。自由になった両の手で、そのまま頭を抱え込んでしまった。震えている。
「この崇高さが……!この優しさが……!分からないからっ……!!」
エルエルは苦しくなっちゃうんだ……!!
「……場所を変えようエルエル」
あんなもの、もう見たくないだろ?
腕を引いても、エルエルはその場をまだ動かない。
「私は……弱いわね?」
涙を流しながら、空を見上げて……
**********
思えばもう、ずっと一緒にいる気がする。それほどまでに王子と過ごしたこの三年間は、深く深く記憶に刻まれている……
『昔から鳥って好きなんだ。自由で、綺麗で、カッコよくて――――よく見てたよ。だから偽物の翼だって僕にはす~ぐ分かったね!――――ほんとほんと!だって本物触ったことあるし!――――うぇ!?あーえへへへへ……』
『へぇ~そんな料理もあるんだ!――――え僕っ!?僕はぁ……ほらっ料理は愛情って言うじゃん!?あはははは――――じゃあさ、いつかエルエルが作ってよ!』
『凄いなぁ遺物は……――――あえぇっと発明品は凄いなぁって話!――――そうそう!発明品って言わば智慧と挑戦の結晶でしょ?凄いんだよ、人類って。だって魔法みたいじゃん!――――うん、十分に発達した科学は魔法と見分けがつかないってね』
楽しかった……人生で一番楽しい時間だった……
まるで熱に浮かされてるかのように、
王子はいつも私を助けてくれた。初めて会った時も……きっと私が寝ている間も……そして今日も……
ずっと守られてる……
私は……
ずっと守らなきゃいけないくらい……弱いんだ……
『身も心も人一倍強くないと、思うように人助けなんて出来ない』
そうね、その通りだと思うわ……
この三年、王子のお陰でありのままの私で居られた……
逃げるのは楽で……楽しかった……
けどありのままの私は、逃げ続けた私は……弱いままなんだ……少女一人も思うように助けられない……
逃げてるだけじゃダメなんだ……目を背けて忘れてるだけじゃ……
信者達の声を聞いただけで涙が溢れ出してくる。
ずっとふわふわして苦しいんだ……!
ねぇ、王子……
「私は……弱いわね?」
ちゃんと見るんだ……私は、こんなにも弱い……!
空が涙で滲んでいる。
「でもぉ……!」
鼻水まで垂らして、こんな顔見られたくないけど、王子の眼を真っ直ぐに見つめる。
「
私の顔を見た王子は、目を丸くしたかと思いきや、いつものように顎に手を添えて考え込んで……
「情報が
「おかぁ……さん……あついよぉ……」
「お願いします!!助けて下さい!!お願いします!!お願いします!!」
三歳くらいの子供を抱えた女性が、布教していた信者の青年に縋りついている。縋りつかれた青年は困った顔をして狼狽えるしか出来ない。
「あ、あのぉ……」
「お願いです!!この子病弱で……!!きっと耐えられない!!お願いします!!お願い、」
「見せて下さい!」
二人の間に割って入って、子供の頭に手を添える。子供は発熱に汗を掻き、浅い息を吐きながら重い瞼を上げてその手を見る。
次第に、息が正常に繰り返されるようになって、汗も引いていく。子供は安心したかのように瞼を閉じ、安らかな寝息をたて始めた。
「うそ……」
「あ、あなたは……」
そんな光景に、集まっていた人々がざわつきだす。布教していた信者達の目には涙すら浮かんでいる。
「私はエルエル・レリークヴィエ……」
声が僅かに震える……
頑張れ……堂々と言い切るんだ……!
きゅっと目を瞑り、我武者羅に叫んだ。
「癒しの、天使です!!!」
**********
本来ならエルエルの頑張りを自分達の宗教の事として広めていた信者達は許せなかった。
嘘に苛まれたエルエルの心の傷を更に抉るようなことだったからだ。
エルエルが皆を助けるには、エルエルならウィルスに犯された体を治せるという事実を見せて、信用を得る必要があった。
だが様々な情報が
そんな状況だからこそ、天使の名が広まっていた事が幸いした。
とびきりの皮肉だ……!
エルエルがエルエルとして頑張って来たことを勝手に天使の手柄にされて、でも天使という強い名前で広まっていたお陰で、簡単に信用を得られるようになった。
聖女教を巻き込む形で、彼らの力を得られたのも大きかった。
エルエルを苦しめ続けた嘘が、今エルエルを助けてる。
「エルエル休もう!足だってもうふらふらだ!」
あれからずっとエルエルが寝ている所を見ていない。時々気絶するかのようにうたた寝することはあれど、五分と寝ずに患者の元へ向かう。
「ふわふわしてないから大丈夫よ……!ちゃんと立ってるから……!」
「え?でも死んじゃうよ!」
「西区の奥にはまだ行けてないの……!私が向かう事で、まだ助かる命があるのよ……!!」
もう限界で、今にも倒れそうなはずなのに……肌がビリつく気迫があった。
【余談】
消毒騒動の少女の母親は泊まり込み中の職場で発症後即入院して隔離されているので、正確には少女は濃厚接触者ではない。
通りかかったおじさんは同じビルに住む顔なじみだ。
少女は片親で、母親がいない今、自分より幼い妹の面倒を見なくてはいけない。
妹が寂しがらないように、妹の好きなお菓子を買ってあげたかった。でも通販は普段母親がしてくれているので分からない。
勿論、自分の置かれている状況は分かっている。町の状況も。だからフードとマスクで顔を隠して、こっそりひっそり店へ向かっていたのだ。
【もひとつ余談】
エルエルが出ていってからの聖女教は、当代のシンボルを失ったかのように思えて、その実信仰の根本はサリウリの偉業に対する憧憬と崇拝。
だからこそ信者が急速に離れていくことは無かった。
また、思春期娘のただの家出をアニマの存在がややこしくしていて、エルエルは神アニマの御側使えとして世直しの旅をしているとの解釈もとれた。
その為、教会にエルエルが居ない間も、天使エルエルへの求心力は衰えるどころか、エルエルが人を助ける度に増していったのである。
本物の神と本物の天使が人助けの旅をしているという魔力が、若い信者達を突き動かしていたのだろう。
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