第193話 愛を伝えられなかった女③
「そんなわけないだろ!!!」
張り過ぎてひび割れた声と同時に、唾と血が飛び出す。
「アイシャだ!!!――……アイシャだ!!!」
裏返り、がなり、空気を打ち出す為に収縮した腹から更にドバっと出た血がエルエルの手でも抑えきれない。
腕を押さえるジェニとエストさんの顔にも余裕は無く、その怪力にジェニは足が浮いてしまいそうだ。
「叫ばないで!!お腹に力を入れないで!!血が、止まらない……!!」
押され負けないように踏ん張るエルエルも苦しげな声で、
「動かないでっ……」
悲痛な顔で嘆願する。今にも泣きだしてしまいそうだ。
こちらが取り乱していれば怪物も気が立って冷静じゃいられない。だから僕は一度息を吸いこんで、
「アイシャさんの魂はもうここには無いよ……」
伝えるべきことをきちんと言葉にしようと決めた。
人の魂は胸の中心、鳩尾の少し上辺りに存在する。左に寄る事も無い様から心臓に由来している訳ではなさそうだ。
つまり臓器が直接関連するようなものではなく、もっと大きな括りで……例えば命とか精神とか心とかそう言った概念的なものの結晶なんだと思う。
あの体には魂がある。
イコール生きているとはならないのが奴の恐ろしい生態だ。本で読んだだけの知識だったけど、この目で直接見てその怖さをより知った。
あの体にあるのは、
「あれは、
「
「
怪物の抵抗が弱まったのか、二人にも他ごとを気にする余裕が出来たようだ。
「奴らは死体の脊髄に取って代わり、千の手足で神経を刺激することで宿主を操る。だから魂の位置がおかしかったんだ」
今は取り乱している怪物も、丁寧に説明すればきっと理性を取り戻してくれるはず。
「しかし寄生生物として死体に乗り込むと言うのは非効率的では?動かすエネルギーを手ずから補給するのであれば、生きた宿主から少しずつ分けて貰う方が楽をできると思いますが」
奴らは人も食べる。人の姿のまま。
「確かにそうだね。あの体は発汗しているし体温もある。そう言う観点では生きてるって言えるかもね。生きてる以上常にエネルギーを消費するし、減ったら食べなければならない」
「体積が増える分、量も増えるでしょう。ただの百足として死体を貪る方が少ない食糧で事足りる」
寄生してまで獲物を狩らなくてもいいのではないか?と。
「生物としては、ね……」
長話をしている間に立ち上がって槍を構えた彼女を見ながら、僕は刀と鞘を縛り、納めたまま構える。
「どうしましたか物憂げに……いや、成程前提が間違ってましたか……そうですね。確かに
エストさんも僕と同じ仮説に至ったようだ。そこに至るまでの速さにやや驚愕しつつ、
「
「で、しょうね。歪な生態にも説明がつきますし」
そもそも野生環境で生き残る為にデザインされていない。寄生する目的が捕食の為でなく、また外敵が殆ど存在しない第五層では外敵に備えてでもないだろう。
そもそもそもそも、一メートル近い体長を持つのにクマムシ並みのエネルギー効率で生きるという事は、アクティブには動けないという事。
ジェニが不意を突かれなきゃ怖くないと言ったように、本体は弱いのだろう。
そんな生物が野生で発生するわけもなく、ならばどういった意図でデザインされたのかと考えれば自ずと答えは見えてくる。
人を生き永らえさせる為だ。
死んだ人間を生き返らせる方法は古くから研究されてきた。怪しげな混ぜ物を飲めば永遠の命を得られるだとか、怪しげな儀式をすればだとか、山で何十年も瞑想すればだとか……
そのどれもが悲惨な結末に散ったのは言うまでもない。
だが古くよりもっと古き人達は考えた。
生命活動を代わりに行ってくれる存在が居れば死を克服できると。
「彼らは知らなかったんだと思うよ。もしくは見えていなかった。だから人間の本質を見抜けなかった。
槍を振りかぶり、斬りかかってくるそれを鞘で弾く。
「いくら体だけ動かせても本人の魂が無いんじゃ、それはもう人じゃない。捕食者と化した
崩された体勢から僕へと向けられる無の視線が、無機質な動きが、嫌という程知らしめる。
「そんなわけ……ないだろう…………」
怪物の口から静かに言葉が紡がれた。
「あの安物の服も……髪の色も……昔のままだ…………一緒に買いに行ったんだ……もっとお洒落な物もあったのに……これが落ち着くんですって…………」
ぽつぽつ……ぽつぽつと語られる。
「立って歩いてる……息をしてる……どれもこれもアイシャだ……アイシャなんだ……」
再度振るわれた槍をもう一度弾き返す。
「っっその槍だって、俺が教えた動きだ……!!」
膝から崩れ落ちた怪物にエルエルが小さく声を漏らす。
「……俺のアイシャだ」
俯き零れた呟きには哀愁が乗り……
「ウガ……チくん……」
彼女の口から途切れ途切れの音が鳴った。
「ほらぁ!!!」
瞬間、怪物はビシッと指をさして言う。
「怪物、
「だからあれはあの人の音であっても、あの人の言葉ではありません」
ジェニの言葉をエストさんが引き継いで。言い難いことを代弁して。恨み役を買って出て。
「貴方が求める人はもうどこにもいないのです」
「……ここにいるのに……」
指していた指を広げて掴もうと、
「……触れられるのに……」
伸ばして、伸ばして……
いつまで続ければいいんだこれ……?
ショートソードと比べて太刀は重い。鞘に納めたまま槍を弾いているから尚の事。更に女性とは言え向こうは大人のラーテル獣人。素の力が僕とは違う。
それにこの重さから察するにリミッターも全開だ。まぁ死んでいるから当然か。その槍を弾くためにはこっちもそれなりに強く衝撃を与えなければならない。
皆を守っている以上避けてばかりもいられないし、いい加減汗ばんできた。
何より厄介なのが怪物仕込みの槍術がそれなりに巧みな所だ。怪物の話では彼女は臆病で碌に戦えなかったとのことだったけど、死体に恐怖もへったくれもあったもんじゃない。
無機質だからこそ鋭い攻撃には、時折本気でひやっとさせられる。努力家だったんだろう。基礎が抜群に出来ている。
流石にそう長い時間持ち堪えるのは無理そうだけど……
チラッと僕の様子を見たエストさんが口を開いた。
「過ぎ去りし時を求めて身を滅ぼしてはいけません。今を生きる者が明日に目を向けられるよう、想い出として語り継げるよう、人は葬送するのです」
怪物の肩に手を置き、
「それとももう、
残酷な問いかけだった。
僕達から見たら抜け殻でも、怪物から見たらそれは仲間の体で。愛する人の姿そのままで。
抱きしめれば体温があって、声がして、僅かな記憶も残ってる。仕草も癖も当時のままで、
いつか自分を思い出してくれる。いつか元に戻ってくれる。こうして動いているのだから、いつか……いつか……
人はそんなに強くない。
僅かでも希望があるなら縋ってしまう。天文学的確率でも、無茶でも無謀でも、悪でも非道でも、その魔力には抗えない。
「アニマ君、交代です。怪物さんについていてあげて下さい」
見かねて、最後に怪物の姿を確認すると、僕にそう言いつつ剣を抜こうとしたエストさんの腕を怪物が抑えていた。
「いい、エスト。大丈夫だ……」
「ですが、いや……そうですね……」
腕に視線を、続けて顔を見て……エストさんは引いた。
「俺が
腹の傷は辛うじて血が止まった程度、動けばまた開いて悪化してしまう可能性もある。
けれども大槍を構える姿には、最早誰にも止められない覚悟があった。
【余談】
解離とは、意識や記憶などに関する感覚をまとめる能力が一時的に失われた状態の事を言う。
魂が見えているアニマや、客観視できるエストと違い、怪物の視点からでは冷静に判断するのは難しいだろう。
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