第192話 愛を伝えられなかった女②
焦げ茶色のへそまで伸びた長いぼさついた髪から察するに、相応に長い間水浴びをしてこなかったのだろう。
着用している冒険服もボロボロで、腰や膝や肘や肩や脇の辺りが破れたり解れたりしている。
おっとりとした眉と、くりっとした黒い瞳。鼻や口は小ぶりで胸も控えめ。パーツパーツは整っているが、どこか田舎臭い印象が拭えない女性。
それがまともな状態であったなら、特別美しいとは言えなくともどこか不思議と好感を抱いてしまうような、怪物と同い年くらいのお姉さん。
しかし肌も服も汚れ、何より表情が無い。目に光が宿っていない。腹の傷から血を流す怪物に向ける目に余りにも温度が無い。
それにやはり魂が変だ。一見するとラーテル獣人の魂と言えなくも無いけど、どこか歪で……
普通なら胸の辺りから体全体を覆うオーラが、脊髄の辺りから覆っているように見える。
形容できない表情の怪物に再び槍を突き刺そうと振りかぶる姿はまるで……
「避けて怪物!!その人おかしいよ!!」
咄嗟に叫ぶも怪物の心に僕の言葉は届かなかったようだ。
「チッ!」
ジェニが舌打ちし、同時に飛び出した。道路は砂や土と違って滑りにくく、高い摩擦力をそのまま推進力へと変換する。
ガキン!と槍を弾き、勢いのまま懐に踏み込むと、宝剣を振りぬ、
「わっ!」
その背中を怪物の手が掴み、後ろへ投げ飛ばし、ジェニは驚き尻もちをついた。
「って!」
突然何だ!?と怪物に視線を向けたジェニに対して、
「何をしている……?」
信じられない物を見るかのような顔で見下ろす怪物の腹からは血が滴る。その異様さは、
「そ……」
ジェニをすらたじろかせた。
「あ……」
ジェニの出来のいい頭の中では数多の文字列の取捨選択が超高速で行われているのだろう。その全てが組み上がる前に崩れ去ってしまうようで。
「なぜ剣を向けた……?」
「だって怪物を殺そうとしたから」ジェニの顔にはそう書いてある。でも言葉には出来ないようで……
恐らくこうなる事も薄々分かっていたが早々に選択肢から外し、その結果が間違いだったと思ったからこそ、ジェニも自分の短慮さを悔いているようで……
「アニマ……」
僕に助けを求めてきた。
ガン!
「敵に向けるには大きすぎる背中ですよ」
エストさんが怪物との間に入り、槍をバックラーで防いだ。軽口を叩ける余裕があるくらいには、膂力で押されることはないようだ。
「敵、だと……?」
ジェニからエストさんへゆっくり振り向く怪物。
「少なくとも味方であれば、穂先を突き刺すようなイカれた挨拶はしないでしょう」
エストさんの言う通りだ。あの女性は正気じゃない。
「いいや、違う……誤解だ……」
怪物は女性と目を合わすと、
「いきなりで……びっくりしてしまったんだよな……?」
エストさんの肩に手を置いてゆっくりどかしつつ、腹を片手で抑え一歩踏み出す。
「……なに、傷なら大丈夫だ。俺が人一倍丈夫なのはよく知ってるだろう……?」
更に一歩。
「そう怒らないで……どうか槍を置いてくれないか……?」
手を広げて敵意がない事を伝える。すると、女性はゆっくりと屈みだして……
「そうだ。ゆっくり……ゆっくり……」
槍が地面に触れる寸前、曲がり切った膝をバネに、
ドスッ
「うっ……!」
怪物の腹に錆びているとはいえ体重の乗った槍が今度は更に深く刺さり、
「怪物!!!」
叫んだ僕を怪物が目で制した。目だけで制された。とても腹に槍が刺さっている人の目では無かった。
錆びだらけでじゃりついているせいで、余計に痛みを感じるだろうに。
「……アニマ……!」
助けに行っていいのか、剣を振るっていいのか分からない。そんな顔で僕にどうすればいいのか言外に問うてくるジェニ。
「その人がアイシャさんで間違いないんだよね!!?」
咄嗟の問いかけに、怪物は首を僅かにこくんと倒して肯定する。
怪物がクリーチャーズマンションで孤独な三年間を過ごすことになった元凶にして、怪物を怪物にした元凶……
だが過去を語るその口ぶりから感じられた印象は真逆。彼女の笑い方を、彼女の口ぶりを、彼女の仕草までも感じさせた……彼女は等身大の女性として温かく語られた……
怪物は
「――!!」
彼女が握る槍に捻りを加えた。声になるかならないかの、だが決して言葉にはならない悲鳴を漏らし、傷口が開いていく。
「アニマ!!!」
再度僕を呼んだジェニの顔はもうどうしようもなく切羽詰まっていて。
けれども僕は顔を横に振った。
脂汗を滲ませながらも、怪物に彼女を傷つける意思はない。手を出そうとしていない。
記憶の彼方に葬り去るにはその存在は大き過ぎて、質量を伴えばどんな状態であれ
「――!!!」
彼女が捻る手首に更に力を籠めたのか、槍は肉を抉り、傷つけられた臓物から夥しい量の血が溢れ出す。
ボタ……ボタタ……
激痛に苛まれながらも気を失っていないのが不思議だ。常人なら歯を噛み砕いてしまってもおかしくない。
……くそっ!!
「怪物!!!」
もう見てられない!!
「手を出すな!!!」
動き出そうとした僕の気配を気取った怪物が制止する。荒々しいがなり声だ。でも、
「死んじゃうよ!!!」
僕は走り出した。
「やめろぉ!!!」
怪物の声も振り切って、加速しきった体を宙に浮かせて、揃えた両足を彼女の腰のあたりに蹴り込んだ。ドロップキックだ。
ジェニに任せばやり過ぎてしまう可能性があった。それにジェニに重荷は背負わせたくなかった。エストさんは適切に手加減できるけど、そもそも彼女を敵として見ている。
僕がやらなきゃいけなかった。
止まっていた対象に全体重を乗せた攻撃を叩き込んだんだ。彼女は勢いよく後ろ向きに倒れ込んだ。その際握り締めていた槍が手荒に怪物の腹から引き抜かれ、数秒後には蓋が無くなったことで流血が加速するだろう。
それ程勢いよく物が動けば、それに応じた粒子の飛沫がある。つまり匂いが鼻を通る。
腐った匂いではない……これは……死を知っている匂い……?死そのものの匂いとでも言うべきか……?ただ一つ言えることは、生者の放つそれではない。
「ダメよ怪物……!」
心配や不安や痛みや悲しみを、怒りと想いで塗りつぶした表情でこちらへ迫ろうとする怪物の前に割り込んだエルエルは、熟成された蒸留酒のビン栓を指ではじきつつ腹にぶっかけた。
一瞬痛みに顔を歪めた怪物だったが、そのまま止まることは無い。
そのせいで本来なら
激しい痛みを感じるはずなのに怪物がそれでも動こうとするせいで、エルエルも足を踏ん張らざるを得なくなり、治療に集中できない。
「もうあなたの知る彼女じゃないの……!!」
エルエルの言い方でようやく僕もその正体が分かった。第五層で誰よりも長く暮らしてきたエルエルだからこそ、いち早くあれの正体の見当がついたんだろう。
逃げ回って、決して相対することは無くとも現象としては知っていて、他のケースを何度も目にしていたのだろう。
「ジェニ、エストさん!!怪物を押さえて!!」
二人が直ぐに怪物の両腕にまとわりつく。
僕はまだ起き上がれない彼女を一瞥してから怪物に叫んだ。
「あれは
恐るべき生態を持った
【余談】
怪物は優しい男で、怒りや憎悪を人に向ける事は殆どない。
ただ、愛した女性を目の前で蹴り飛ばされたら流石に怒る。
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