第110話 お母さん


 全て読んだ。真っ暗な閉ざされた部屋の中、ランプの明かりだけを頼りにページを捲る音だけが耳に入っていた。


…………!」


 最後のページを見る頃にはもう、涙がどうしようもなく溢れてきていた。


 どのページを捲っても書いてあるのは僕に関連する事ばかり。


 腕で目を抑えながらも、隙間からもう一度日記を読む。


……」


 いつも僕に、「おいしい?」って聞いていた。歩み寄ろうとしてくれていた。気にかけてくれていた。


……」


 睡眠不足で隈がこべりついて取れなくなっていた。外見に気を遣う余裕もないほどに疲れていたんだろう。それでも父さんを探しに行くために、不器用ながらに頑張っていたのだろう。


……」


 ボロボロだったのは母親のほうだ。そんなになってまで作ってくれていたご飯を、ありがたみもなく食べていたんだ僕は!


 味がしないだなんて被害者ぶって、歩み寄っていなかったのは僕の方だったんだ。ただ僕がどうしようもなく子供だったんだ。


 馬鹿が!自分のことばかり気にして、不幸だなんて何かのせいにして、愛されていないだなんて思い込んで、悟ったようなことばかり言って、達観したふりをして、ただ目を逸らしていただけじゃないか!


 諦めていただけじゃないか!母親は独り、お父さんが生きていると信じ続けていたというのに!


……!!」


 涙と後悔でまともに立っていられなくなって、その場に膝をついてへたり込み、手に持った日記を力一杯に抱きしめた。


 僕はバカだ!大バカだ!!……ごめんよ。自分勝手な息子でごめん。ちゃんと会って謝りたいんだ。だから会いに行くよ。


「……






**********






「んなっ!じゃクローナさん今クリーチャーズマンションなん!?」


 ブジン、カナリアと共に家に帰ったジェニはそこでカナリアから自分がいない間に起きたことを聞いていた。


 いつものリビングにはいつもとは違う空気が流れている。


「アニマ君、挨拶もなしに帰っちゃったけどぉ、クローナさんおらんって知ったら悲しむやろうねぇ~」


「おい!それは不味いぞ!今クリーチャーズマンションには、」


「そうやオトン!今は悪魔が!」


「ああ、中途半端に傷を負ってイライラしているはずだ!もし出くわしちまったらどんなに優秀な冒険者でもひとたまりもねぇぞ!」


 焦ったように言うジェニとブジンに、


「アニマ君は無事に帰って来たわけやし……これやとクローナさん……無駄死にに……」


 カナリアも顔に手を当て、深刻な表情で答える。


「……ジェニが助けに行く!」


 下を向きながら、絞り出すようにジェニは言った。


「えっジェニ!?」


「ジェニはアニマがおらんかったら何回死んどったか分からん!アニマはどんな時でも、ジェニを助けてくれたんや!やから今度は……今度はジェニが、」


 いくらジェニとて、強大な力を誇る悪魔はとても恐ろしい存在だった。もう二度と、近づきたくもないくらいに。


 父親であり、最も尊敬する剣士であるブジンの腕が切り落とされた時の映像が脳裏には鮮烈にこべり着いている。


 ジェニはそこまで何かを恐れた事など無かった。カナリアに対して語る口ぶりも、怯えからくる震え混じりだ。


「い……嫌やよ……ブジン君でも腕が無くなったんやで……?そんなところにまた行くなんて、私は嫌やよ!」


「でもオカン、ジェニが行かな、」


「ジェニが行くこと無いやんか!!!そんなとこ、ジェニが行くこと無いやんか!!!……クローナさんやて危ないの分かってて行ったんやから、やから……アニマ君やってそんなことくらい分かっとるやろうから、」


「そうやアニマ……アニマならきっと、いや絶対助けに行く……アニマなら……うん、アニマなら!」


 激情を露わにするカナリアに、だがジェニはその顔を晴れやかに上げた。


「ジェニ……?」


「オカン、危ないとかそんなんどうでもええんや!……アニマが行くなら、ジェニは、どんなとこでも一緒に行くんや!だって――――――」


「嫌やよ!!!ブジン君も何か言ってや!!!このままやとジェニが!!!」


「……アニマから受けた恩は一生だ。正直俺も一緒に行きたい、」


 カナリアの言葉にブジンは静かに口を開いた。


「何が恩や!!!それで自分の娘死んでもええんか!!!他人の為に、家族死んでもええんかぁ!!!それにブジン君やってそんな腕で何が、」


「そんなの、俺が一番分かってる!!!俺が行っても、足手まといになるだけだろうさ!!!」


「ほなブジン君は、」


「ああ、俺は行けない!!!だがジェニには行かせてやりたい!!!」


「何でよ!!?尚更危険やない!!!ジェニが死んでまうやない!!!」


「お前のいう事は分かる!数千年の歴史の中で、悪魔には誰も勝てたことがない!確かに危険だ!心配だ!不安だ!でもな、」


「でも何よ!」


「でもっ!!!!!!!!!」


「っっっ!」


!!!」


 ブジンの叫びには魂が乗っていた。それは不可能を可能にしてきた男だからだろうか?周りの反対や嘲笑を跳ね返してきた男だからだろうか?


 ただ精一杯のその言葉は、カナリアの心にもしっかりと届き得るものだった。


「私はただ……ジェニが心配でぇ……ぐすっ……もう……あんなに苦しい思いしたなくてぇ……」


 ブジンは泣き崩れるカナリアをそっと抱きしめる。


「ジェニは強い子だ。いつまでも子供じゃないさ。自分の道は自分で決められる。俺たちはそれを喜ぼうとも、足枷になってはいけないのさ」


 カナリアは「うん……うん……」とブジンの腕の中で泣くのだった。


「でもなジェニ。これはあくまでもアニマの問題だ。助けに行くかどうかはアニマが決める事。そのことだけはしっかりとわきまえておけよ」


「うん……」


「ただ、もしアニマがお前を頼ってきたら、その時は笑顔で頷いてやれ!」


「うん!」






**********






 日記の最後の日付から見るに、お母さんがクリーチャーズマンションへと入ったのは今から丁度一週間前だ。向こうが大所帯だという事を考えると、急げば今からでも追いつけそうだ。


 こっちは最短ルートで進めばいいのだから、探しながら進むお母さんたちに追いつくだけなら簡単か。


 攻略したばっかで足はがくがく。体のあちこちが筋肉痛で、疲労感も凄い。でも弱音なんて吐いていられない。


 


 僕には分かる。僕たちを取り逃がした悪魔は、きっと次の獲物を涎を垂らして待ってる。そんなところへ碌に戦えないお母さんが行ったら死んでしまうのは火を見るよりも明らかだ。


 悪魔には絶対に勝てない。そもそも勝負にすらならない。けど、お母さんを抱えて逃げるくらいなら出来るかもしれない。


 行けばほぼ100パーセント死ぬと分かっている所にジェニ、怪物、エルエルを巻き込むわけには行かない。


 そもそもこれは僕がお母さんと向き合ってこなかったから起こってしまった問題。責任は僕にある。行くなら僕一人だ。


 今度は待たない。一流の冒険者たちが付いているからといっても、ブジンさん達はそれでも負けたんだ。お父さんの時のように、もう帰って来ない家族をひたすら待ち続けるのは嫌だ!


 『父さんが帰ってくるまで母さんのことは任せたぞ。男同士の約束だ』死んだ父さんとの最後の約束。お母さんは必ず守り通してみせる!!!


 そうと決まれば、まず買い物に行かなくちゃ。冒険服はボロボロだし、リュックも探索道具も無いしな……






【余談】

ランジグは方角により四つの区画に分けられている。

それぞれの四英雄にちなんで、東王区、南戦区、西弓区、北闘区、と呼ばれている。

東王区は王宮を始めとして貴族や大商人などが豪邸を構えている。シャルマン邸がある事でも有名だ。

南戦区はクリーチャーズマンション入り口前広場を中心に商業が盛んで、中心部から離れると民家が密集する居住区となる。東王区寄りの、中の上流階級が好む土地にシナスタジア家がある。

西弓区は川の流れの関係上工業が盛んで、製鉄や鋳造などの産業汚染で土地こそ汚く定住は嫌煙されるが多くの住民が働きに出ている。

北闘区は巨大なクリーチャーズマンションの影のせいで常に日当たりが悪く、最も土地が安く、広大なスラム街となっている。西弓区寄りには格安娼館が、東王区寄りには高級娼館が並ぶ。

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