第108話 母の日記③


『今日から仕事を掛け持ちすることにした。もっともっと頑張らなきゃ。』


『睡眠を削ってきたせいか、体がボロボロになって来た。毎日起き上がるのが辛い。』


『ダメだ。今のペースじゃとてもじゃないけど間に合わない。』


『ごめんねアニマ。でも、アニマにも働いて貰わないと全然間に合わないの。まだ遊びたい年頃なのは分かるわ。怒るのも私を嫌うのも分かる。でもお願い。今だけは我慢して。そうすればお父さんを助けに行けるから。』




 ……衝撃だった。ギャンブルに狂っていると思っていた時期もあったのに……


 そればかりか、母親だけはお父さんが生きていると信じて疑っていなかった。この頃には僕ももう諦めてしまっていたはずなのに。


 狂っていると、おかしいと思っていた母親は、その実ただひたすらに一生懸命だっただけだったのだ。いや、狂っていたのは確かかもしれない。


 誰もが諦めた家族の帰りを信じる姿は、妄信的かつ狂信的で、生活すらも捨てるひたむきさには狂気にも似たものがあるだろう。


 ただ何が母親をそこまで必死にさせたのかは明確だ。


 言うならばそれは、。家族への無尽むじんの愛だ。


 「愛は時に人を狂わす」とは誰の言葉だったか。実際その通りかもしれない。でも、狂うほどに人を愛せる母親は純粋に凄いと思う。


 狂気に見えても、異端に見えても、誰も理解できない程の愛を持っていたのだから。そこまで深く家族を愛していたのだから。夫を愛していたのだから。


 理不尽に働きに出されたと思ってへそを曲げた僕は、母親と口を利かなくなった。だから知らなかった。そう、知らなかったんだ。


 もっと早く素直になっていれば、もっと母親のことを知ろうとしていれば、こんなことにはならなかっただろう。少なくとも今日まで関係がこじれ続けることは無かったと思う。




『アニマは今日もへとへとで帰って来た。日に日にその顔から生気が無くなっていく。最近は口もきいてくれない。そうよね。こんな酷い母親とは喋りたくもないわよね。昔みたいに「お母さん」とも言ってくれないわよね。

 最近自分でも分かるくらいに弱気になって来た。ダメだダメだ。私がもっとしっかりしないと。もっともっと頑張らないと。』


『お金が足りない。生活を煮詰めても、睡眠時間を削って働いても、ちっとも目標金額には届かない。きっと普通のやり方じゃダメなんだ。なりふり構ってちゃダメなんだ。女に生まれた私にできる事、もういっそ身体を売るしかない。こんな痩せてしまった貧相な体じゃ客はつかないかも知れないけど、こんな私でも以前は美人だねって言ってくれる人が沢山いたから。

 今は覚悟を決める時よ。お父さんを裏切ってしまう事になるけれど背に腹は代えられないわ。汚れてしまう私をどうか許して下さい。貴方が嫌というならもう二人目が欲しいなんて言わないから。』




 そんな……まさか母親が……




『町で偶然会ったヒムに止められた。私今から死地に向かうような酷い顔をしていたみたい。事情を説明したら、ヒムの店で雇ってくれることになった。お給料にも色を付けてくれるらしい。何でそこまでよくしてくれるのか聞いたら、「幼馴染だからな」と照れ隠しのように言っていた。本当にいい友達を持ったわ。お父さんと出会っていなかったら、もしかしたら結婚してたかもしれないわね。』




 ナイスヒムさん!


 そっか、それで母親がアビースドーナツを持ってたのか。ヒムさんの店で働いていたことすらも知らなかったな……


 それにしてもヒムさんと結婚か。冗談だろうけどヒムさんは優しいし、案外母親もまんざらでもないんじゃないかな?


 いや、そんなありきたりな性格ならこんなに拗らせることは無かったか。


 でもいつまでも死んだ父さんに囚われるくらいなら、再婚も考えてみてもいいかもしれない。




『アニマの帰りが遅くて心配だった私は気付いたらリビングで寝ちゃってたみたい。朝起きたら凄く高そうな毛布が掛けられていた。きっとアニマが掛けてくれたのね。とても暖かかった。とても。』


『アニマが傷だらけになって帰ってきた。仕事を辞めるって言いだした時、私は衝撃と憤りを覚えた。長い、とても長い年月を経てとうとう目標金額まであと少しと言うところまで頑張って来たのに、アニマはもうちょっと頑張れないの!?って。同時に金を払わない居酒屋の店長にも腹が立った。

 更にアニマはそんな理不尽を自分のせいだって言う。その眼には怯えがあった。勝てない存在に屈する目だった。

 その時私は怒りが抑えられなくなった。感情を抑制することが出来なくなって、煮えたぎる怒りのままに叫んで走った。アニマに、私の大切なアニマになんてことするの!って、絶対に許さない!って。その勢いのまま怒鳴り込んだ。

 でも店長には相手にもされていなかった。ガリガリの女がどれだけ怒ったところで怖くなんか無かったんでしょうね。

 アニマが兵士を連れて私を止めに来た時は驚いた。アニマは私よりもずっと冷静で正確な判断が出来ていたんだと思う。でもあの時は仲間が増えたことによる安心感から、増長した怒りに歯止めをかけることもせずに吠えていた。

 兵士が店長とグルだって気づいた時にはもうその怒りはどうしようもなく抑えられなくなっていた。私のアニマをバカにして笑うあの二人を許せなかった。

 私はとっくに周りが見えなくなっていた。

 アニマは凄い勢いで土下座した。あの時私には何でアニマがそうまでして謝るのか分からなかった。ただアニマがクズに頭を下げているのが気に食わなかった。許せなかった。その怒りに任せて罵詈雑言のかぎりをぶつけようとした所をアニマが口を押さえて塞いでくれた。

 帰り道、時間の経過とともに冷静さも戻ってきてアニマの顔を見たら、その額からは血が出ていた。

 私は自分を許せなかった。アニマが仕事を辞めなければいけない程に負担をかけてしまっていたこと。怒りに囚われてしまったこと。私を守るために理不尽な辛い選択をさせてしまったこと。アニマに余りにも酷い背中を見せてしまったこと。

 私を押さえつける腕の力強さに、怯えるほどに怖い人に立ち向かっていく姿に、まだまだ子供だと思っていたアニマが凄く成長していたことを母親なのに今の今まで知らなかったことに対する愚かさと情けなさが湧いてきて、私はアニマに謝るしかなかった。

 落ち着いた頃、私は覚悟を決めた。アニマをこれ以上酷い目にあわせるわけにはいかない。なんとしてでもあそこからアニマを解放する。支払われなかった給料も取り返してみせる。

 それからアニマと話をした。もう何年もまともに話してなかったから何だかすごく嬉しかった。ジェニちゃんの事を話すアニマは凄く生き生きしていて、きっと初恋なのね。それはそれは楽しそうにあれやこれやと教えてくれた。

 アニマが冒険者になりたいと言い出した。それはその日一番の衝撃だったかもしれない。私はほぼ反射的に叫んでいた。冒険者なんて命が幾つあっても足りないような仕事。お父さんも行方不明なのに、この上アニマまでって考えたらもう気持ちを抑えることは出来なかった。

 。』






【余談】

人は理解の範疇を超えた言動をとる人を狂っていると感じる。

だが忘れてはいけない。

人が狂うにはそれなりの理由がある。

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