第4話 天の川の輝く夜に④
僕は居酒屋の仕事に向かうため、来た道を引き返した。
正反対の方向に来たためそこそこの距離になってしまった。
世界一綺麗なもの、か……
一体どんなものなんだろう……
居酒屋につくまでの間、老婆に言われた事が頭の片隅にこべりついたようにずっと引っかかっていた。
偶然というものは重なるようで、道中、兄弟喧嘩したちびっ子達を仲裁したり、腰を痛めて買い物を家に持って帰れないおじいちゃんを手伝ったり、落ちてきた花瓶から目の前の女性を助けたり、後向きに重く大きな荷物を運んでいた男性の足元のバナナを全力で退かしたりと色々なハプニングに遭遇した。
おかげで仕事には遅刻し、今、店長に怒鳴られている。
「お前はただでさえホールができない癖に遅刻までしやがるのか!いい加減クビにしちまうぞ!ぁあー!?」
「これでもできる限り急いだんですけど、色々ハプニングがありまして……それにホールに関しては店長がダメって――」
「言い訳なんて聞きたか無ぇんだよ!!誰が尻尾の一つも生えてないみすぼらしいガキをお客さんの前に出すってんだ!ああー!?分かったらとっとと皿洗え
その後も事あるごとに機嫌の悪い店長にどやされながら皿洗いを続けた。
途中あまりの疲れに指に思ったように力が入らなくなって皿を割ってしまった。
それがまた店長の怒りに油を注ぐことになり、とうとうブチギレた店長に腹を数発殴られた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
驚くことに、自分の口から出たのはそんなありきたりな言葉だけだった。
ホントに自分が悪いのかどうかも分からないまま謝り続けた。
抵抗なんて出来なかった。
店長は昔から喧嘩で負けたことは無いらしく、大人でもビビるくらい身長も筋肉もでかい。
僕は体も小さいし、力もない。
まるで蛇に睨まれた蛙、大型肉食獣を前にした小動物のようにただ恐怖に
やがて仕事は終わり。今は月明かりの下、家までの帰り道を歩いている。
月は既に天辺を過ぎ、町はもう眠りについていた。静まり返った道、僕のトボトボという足音だけが聞こえてくる。
どうして僕がこんな辛い思いをいなくちゃいけないんだろう……
どうして僕がこんな痛い思いをしなくちゃいけないんだろう……
どうしてこんなにも
小さいころ思い描いた将来の自分は、強くて、カッコよくて、いつでも笑顔を絶やさないような、そんな、そんな、
働いても働いてもちっとも楽にならない。
母親とは冷め切った関係しか築けていない。
僕にだけ厳しくて、僕にだけ残酷で、僕、
とぼとぼ……とぼとぼ……
視界は
歩くスピードはどんどんと遅くなり、やがて完全に足も止まり、下を向いて
「うう……ううぅぅ……ぅぅ…………」
数十秒か
一体いつまでそうしていただろうか。
不思議と涙が止まらなかった。
誰かを笑顔にしようと人の為にと色々頑張ってみたところで、無力な僕には何も変えることができない。
誰かの役に立てた気になっていただけで、結局は自己満足だったのかもしれない。
いつまでたっても強くてカッコいい自分にはなれない。
どれだけ頑張っても、どれだけ働いても、明るい未来はやってこない……
僕に尻尾が無いからいけないのかな……
みんなと違うから、気味が悪いから、こんなにも苦しいのかな……
母親も僕のことが嫌いだからこんなに働かすのかな……
尻尾が無い僕は、生きてちゃいけないのかな……
生まれてこないほうが良かったのかな……
もう……なにも……見えないよ…………
「ねえ、そんなとこで蹲って何しとんの?今日はこんに星綺麗なんに、下むいとったら勿体ないやん!」
突如、誰かに声を掛けられた。
前を向くとそこには、公園を前にして遊ばない友達を
涙と黒い
「ほらこっちおいで!」
そう言って僕の手を引き、強引に公園に連れていく。
そして公園の丘の上に着くと、唐突にそこで寝転がった。
「ほら、君も!」
そう言いながら彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
そこに寝ろという事だろうか。初対面の男に普通そんなことするか?
……それに僕には……
「ねぇ、僕には君が優しくしてくれる理由が分からないよ……僕、非力だし、愚図だし……それに……尻尾も無いし……」
「別にジェニ、人に優しくした事なんか無いで。そんなんどうでもええから取り敢えず君も寝てみなよ、ほら!」
「でも、僕、尻尾が無いんだよ!?気持ち悪くないの!?」
彼女があまりにも
彼女はふっと鼻で笑うと、おもむろに立ち上がった。
そして、今度はニヤリと挑戦的な笑みを浮かべると……なんと自らスカートを
真っ白なパンツが目に飛び込んでくる。
「ほら!ジェニにも君と違ってちんちんついてないで、どう……気持ち悪ないの?」
あまりの衝撃に僕は暫く立ち尽くした。
でもそのおかげで、僕は初めてちゃんと
厚手のコートを着ているのにミニスカを履いていて、何だか元気な印象を受ける。
首から下げた十字架のネックレスがいいアクセントだ。
小さな顔に透き通った肌。
可愛らしい小ぶりな鼻に対して、大きな目と口がさらに快活な印象を際立てる。
腰まである白くて長い、少し癖のついた髪を頭の下のほうで2つに結び、大きな瞳はカシャライ産の特別なアメジストのように、吸い込まれるほど深く鮮やかな紫の中に、月明かりを吸収した赤い光が反射し、まるで
そんな瞳でニヤリと僕を見つめている。
僕は何も言わずに、彼女がポンポンと叩いた位置に寝転がった。
「分かったらええんや!」
そういうと彼女も上機嫌に寝転がった。
そして一息つくと喋り始めた。
「今日は快晴やからいつもより星が明るく綺麗に見えるやろ?」
「……うん」
ホントは綺麗だとは思えなかったけど、僕はそう返事した。だってこの世界は灰色に濁っているのだから。
「ジェニな、こうやってみんなが寝静まった夜に独りで星見るの好きなんや。あの星よりこの星のがでかいなーとか、あの大きな星を線で繋げたらバウムクーヘンに見えるなーとか、そんなことぼーっと考えながら見とるとな、どんどん自分だけの世界に入ってくんや」
それは凄く分かる。
僕もいったん考え事を始めると、没入してついつい余計なことまで考え込んでしまう。
「そしたらな、いつもは絶対思いつかんようなことがこう、ぱっと
彼女は身振り手振りを加えながら、そんなバカバカしいことを言うとニコッと笑った。
「あ、今バカバカしいて思ったやろ!?
彼女はぷんぷんと怒ったふりをする。
「ってことで君もバカバカしいこと考えてみてよ!」
「えっ?急にそんなこと言われてもすぐには思いつかないよ」
「ええからええから、コツは逆に頭空っぽにすることやで!」
「分かった。やってみるよ」
逆に頭を空っぽにする、か。彼女は面白いことを言うな。
そう言われてもそう簡単にぽんぽん思いつくものでもなさそうだ。
そうだ、ここは彼女が語った夢物語の設定を利用させてもらおう。
「月にある大都市ではどんな怪我でも病気でも治るかもしれない……とか?」
仕事の疲れも、指のけがも、お腹の痛みも治してくれるような病院があればいいのに……とそんなことを考えた。
ちょっとこれは無茶苦茶過ぎたかな?
不安になり彼女を見ると、すっごくワクワクしてるといった表情でこちらを見ていた。
「ええやん!そうそう!そういう奴!もっともっとどんどんいこう!」
「じゃあ、みんなが馬よりも速い乗り物に乗って空を飛んでるかもしれないとか」
もっと早く移動出来たら仕事までの時間もっと寝られるし、移動自体も楽になるのに……
「おおおお!そんでそんで!?」
彼女は勢いよく体を起こし続きを急かすようにこちらを見つめる。
「なんでもできる召使みたいなものがいて、全ての人が仕事をせずに暮らしているかもしれないとか」
そもそもみんなが仕事をしなくても済むのなら、それが一番いいのに……
「そーーーーきたかぁ!!そんでそんで!?」
「そこには人以外にもタコみたいな奴とかキノコみたいな奴とか色々な姿の奴らが仲良く遊びながら暮らしているかもしれないとか」
色んな姿の人が仲良く暮らしていたら、尻尾が無い僕でも受け入れてもらえるかもしれない……
「ジェニが長年かけて温めてきたやつをこんな簡単に超えてくるなんて……さては天才か!!!」
彼女は悔しそうにそうツッコんだ。
彼女があまりにも真剣に聞いてくれるもんだから、つい楽しくなって。
「……さっきはバカバカしいなんて思ってごめん。その……思ってたより面白かった」
「ふふ~ん、そやろそやろ!おもろいやろ!?」
――それはあまりの衝撃だった。
気づけば僕は彼女の笑顔に釘付けになっていた。
時刻はとっくに深夜のはずなのにそこには確かに太陽があった。
名月の光とまたたく
長いまつげと整った眉毛。
線の通った小ぶりの鼻に柔らかそうな桜色の唇。
そして、アメジストの瞳を潰れるくらいに細めて笑っている。
可愛い。
素直にそう思った。
その瞬間、僕の視界を覆っていた
灰色がかった空が、濁っていた世界が、クリアに、鮮明になっていく。
……
ああ、そうか。そうだったのか。
ずっと、ずっと濁っていたのはこの世界ではなく、僕の目のほうだったんだ。
汚れて、くすんで、濁っていた、醜かったのは僕の目……いや僕の心だったんだ……
靄が晴れたことによってより鮮明になった彼女の笑顔は、とてもとても綺麗だった――。
特に、
どんな絵具より鮮やかで、どんな星よりも明るくて、その時僕は生まれて初めて恋に落ちた。
どんどんと熱くなる顔。
自分の気持ちに気が付いて、彼女と目があうのが急にこっぱずかしくなって、急いで顔をそらした。
高鳴る鼓動が止められない。
彼女の方を向けない。
血圧だけがどんどん上がっていく。
「もう急にどうしたん?」
不意に彼女が僕の顔を覗き込んできた。
もの凄く近い。
恐ろしく綺麗な顔がドアップで目の前にある。
遅れてふわっといい匂いも漂ってきた。
ドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッ!
鼓動がどんどんと早くなっていく。
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン!!
ドクドクドクドクドクドクドクドクドドドドドドドド!!!
あ……………………
極度の疲れからか、それとも極度の緊張からか、或いはその両方か……
ブシューーーッ。
次の瞬間、僕は盛大に鼻血を吹き出して気を失った。
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