第5話 夜明けとジャン


 目が覚めるとあかつきの空が広がっていた。寝ぼけ眼であたりを見渡すと、そこにもう彼女の姿はなく、僕は独りポツンと公園で寝ていた。


 なぜか寒くないと思ったら、丁寧に上質な毛布が掛けられていた。鼻血を出したはずなのに口元は汚れていない。その代わりに真っ赤のハンカチが近くに置かれていた。


 何が別に人に優しくしたことなんかない、だ。めちゃくちゃ優しいじゃないか。


 僕が鼻血でかぶれないように顔を綺麗に拭いてくれて、わざわざ毛布を取りに家に帰って取ってきてくれたのだろう。その光景が脳裏に浮かぶ。


 真っ赤になったハンカチをよく見ると、名前の刺繍ししゅうが縫ってあった。


 ジェニ・シャルマン


「ありがとう」


 黎明れいめいの光を浴びながら僕はそう口ずさむと、仕事に行くために家に向かって歩き始めた。


 




 ――この世界はこんなにも綺麗だったのか。


 街も人も川も空も。


 全ての風景を綺麗な絵の具で描いたように、その全てが色鮮やかに光り輝いている。


 不思議な感覚だ。


 木も風も空も、動物や人々の営みも、昨日と同じ。


 でも僕はこの色が好きだ。


 晴れて、澄んで、透き通っている。この鮮やかな世界が……好きだ。


 仕事に追われる毎日、疲れの取れない体、友達も恋人もいない。


 けれど。


 昨日僕はジェニ・シャルマンに出会った。


 今日僕が生きているという事に意味を与えてくれた。


 君の為に生きて、君と共にどこへでも行きたいとそう思った。


 人は目的をもって生まれてくると昔の人はそう言ったけれど、僕にも少し分かったような気がする。


 今日は希望に満ちている。


 たった一つの笑顔で、止まない雨も、明けない夜も吹き飛ばしてくれた。


 この世界が鮮麗せんれい流麗りゅうれいだという事を僕に気づかせてくれた。


 可愛くて……優しくて……


 君を知って、君に恋した。


 今、僕は――


 それが僕、12歳のアニマ・シナスタジアの初恋だった。






 家に帰ると、机の上には昨夜の作り置きと思しきご飯がいくつか並べられていて、母親が椅子に座ったまま寝ていた。


 春の気候になってきたとはいえ、夜はまだまだ冷えるというのに。こんなところで寝ていては風邪をひいてしまう。


 きっと遅くまで寝ずに僕の帰りを待ってくれていたのだろうと、手に持っていた上質な毛布をそっと掛けた。


 母親を起こさないように静かにご飯を食べる。冷めているけれど、なんだかいつもより少し味を感じた。


 食べ終わると、軽く体を濡れタオルで拭いて、顔を洗って、服を着替え、いつもの鞄に弁当を入れて家を出た。


「行ってきます」


 寝ている母親を起こさないように静かにそう言った。


 結構時間がかかってしまった。急がないと仕事に遅れちゃいそうだ。


 職場までの道程を駆け足で急ぐ。疲れの抜け切っていない足は重く、少し痛む。暫く走っていると何時もの階段が姿を現した。


「はぁ……よし!」


 気合を入れ直し、一気に階段を駆け上がる。


 一段一段登るたびに、どんどん足が重くなっていく。


 やっぱりこの階段は嫌いだ……でもなんだか今日はそこまで辛くないような気がしたような、そんな気がした。






 ――仕事にはなんとかギリギリ間に合った。


「よう尾無しくん!朝っぱらから汗だくで走ってくるなんて珍しいじゃねぇか!さては朝帰りでも覚えたのかぁ!?この不良少年めぇ!」


 ジャンは僕を見つけると、相も変わらずだるい絡みをしてきた。オールバックにセットした自慢の金髪をなでながら、薄い唇を三日月型にしてニヤついている。


 全く面倒くさい奴だよホント。でもなんで僕が朝に家に帰ったってことが分かったんだろう……


 まさか見ていた!?……訳ないよね。まぁ変な奴が変なことを言ってるだけかも、真に受けずに適当に返事しておこう。


「そうだよ。僕は別に不良少年ではないと思うけど、気づいたら朝になってた」


「うそ……だろ……?」


 僕がそう素っ気なく言ったらなぜかジャンは固まって、「俺だってまだ童て……なのに……」とかなんとかぶつぶつ独り言を言っていたので、スルーしてそのまま仕事に取り掛かった。


 自分の持ち場にて暫く作業をしていると、またジャンが来た。


 暇なんだろうかこいつは?そもそも仕事はどうした?


 そういえばしょっちゅう棟梁とうりょうに怒られている場面を目にする気がする。


「おい尾無しくん。一つだけ聞かせてくれ……どこで寝たんだ?」


 ジャンはえらく真剣な顔で詰め寄ってくる。近い近い、凶悪な顔つきでそんなに近寄らないでくれ。


 それにしても細かいことを気にする奴だな……ジャンってこんな奴だったっけ?


「なんでジャンにそんなこと言わないといけないのさ……」


「頼む、教えてくれ!後学のためだ!」


 両手を合わせ、拝むようにして更に距離を詰めてくる。


 僕の事が一体何の後学になるというんだか……まぁ言わなかったら言わなかったでしつこく聞いてこられそうだし、そっちのが嫌かな。


「夜の公園の丘の上だよ」


「お、おおおおおおお、おおおおおおおお丘の上ぇぇぇぇええええええ!!?」


 ジャンは驚きすぎて勢いそのままに後ろ向きに倒れていった。一体何にそんなに驚いているのだろうか。


 そしてすぐさまゾンビのように気持ち悪く起き上がると、また勢いよく聞いてきた。


「茂みでも遊具の中でもトイレでも無く、丘の上だとぉぉおお!?」


「茂みもトイレも遊具も服が汚れちゃうじゃないか、その分、丘の上は見晴らしもいいし、気持ちよかったよ」


 ジャンは頭を抱え「ああ、あああ……」と呻いている。一体どうしちゃったんだジャンの奴……


 すると今度はカッスカスの声で喋りだした。


「……うそ……だろ……開放感がいいってのか……?上級者じゃねぇか…………誰とだ……どんな奴だったんだよぉおお!!!?」


 こいつ娯楽用ドラッグでも決めてるのか?情緒が不安定過ぎて怖くなってきた。でもほっとくのもかわいそうだし、何より勢いが凄い。


 今逃げても地の果てまで追いかけてきそうだ。さながら走るゾンビみたいに。


「僕と同い年くらいの、あどけなさの中に時折見せる大人っぽさが魅力的な、とびっっっきり可愛い女の子だったなぁ……」


 喋ってる途中、昨日の彼女のことを思い出して少しニヤついてしまった。いけないいけない、言葉にも少し熱が入ってしまった。


「ひぃぃいやぁぁぁぁ!!!ガチの反応じゃねぇかぁぁぁぁぁああああ!!!」


 ジャンはキャーとか、イヤーとか、ギョエーとかひとしきり叫んだ後、「……こんな暗くて弱っちぃ奴のどこが……やっぱり顔か……顔なのかぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!」と叫びながらどこかへ走り去っていった。


 なんだったんだろうか……まさかジャンがここまでヤバい奴とは思ってなかった。


 独り残された僕は、居酒屋の店長に殴られた時とはまた違った恐怖をひしひしと感じていた。

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