第1章 星見るひとびと

第1話 天の川の輝く夜に①


 世界が眠りから覚める前に、今日も僕は目を覚ました。


 暗い部屋、カーテンの隙間からはまだ星が見えている。僕の頭は寝足りないと判断したのか、もう一度眠りへといざなう。


 出来の悪い頭だ。寝ている暇なんてない事は分かり切っているというのに。


 なおもしつこく自己主張する睡魔すいまに向かってつばを吐き、起き上がろうとした僕に、前日の疲労と筋肉痛が容赦なく襲い掛かる。


 3時間程度の眠りではやはり体は癒えないらしい。


 僕だってまだ寝られるのならとことん寝たいよ。


 何時間でも何十時間でも、いっそこの身から根を生やし、大地と同化して、いつまでも、世界と一つになっちゃうまで寝続けられたらいいのにな。


 と、寝ぼけた頭でなんだかんだ言ってみたところで、結局それは12歳の子供のただの願望であり、ただの我儘わがままであり、ただの現実逃避げんじつとうひなわけで。


 いくら現実から目を逸らしたところで時間は待っていてはくれないわけで。


 もし時間に意思があって、美しい女神さまの姿をしていて、慈愛じあいの笑みを浮かべながら優しく僕に寄り添ってくれたなら……って、そんなことを考える僕は心まで疲れてしまっているのだろうか。


 さっ、もう恒例となった睡魔との戦いはこの辺りにしてとっとと着替えなくちゃ。仕事に遅れるわけにはいかない。


 作業着に着替えるべくパジャマのボタンに指をかけたその時、


「イタッ、つっ――」


 あかぎれの指から痛みが走った。かさぶたが切れてしまっている。


 ゆっくりと流れ出してくる血をハンカチで押さえながら、大して痛みを気にするでもなく、慣れた手つきで着替えていく。


 毎日の過酷かこくな肉体労働により、この程度の痛みにはもう慣れっこだった。でも決して痛くないわけではない。


 人は痛みを感じ続けると、その痛みに対して鈍くなる。要するに感覚が麻痺まひしてくるのである。


 それはきっと本来褒められたようなことじゃないだろう。でもこうするしかなかった。


 鈍くなるしか……感じないふりをすることでしか……痛みから逃れるすべを知らないのだから。


 着替えも終わり、最後に自分の姿をチェックしようと、窓から差し込むわずかな月明かりを頼りに姿見すがたみの前に立つ。


 新緑の瑞々みずみずしい若葉のような、色鮮やかでくりっとした二重ふたえの瞳。


 ふさふさとした長いまつげ。


 外仕事なのに何故かいつまでたっても色白いままのうるおいのある肌と少し赤みのさした唇。


 牛乳に墨汁を混ぜたような灰色で、目を覆うほどに伸びた髪を真ん中で分け、襟足えりあしは寝ぐせで少し跳ねている。


 その幼くも整った正に美少年といった顔に反して生気はなく、少しくまが出来てしまっていた。


 そっと手を見ると血はもう止まっていたが、肉刺まめとあかぎれでボロボロだ。


 不意に笑顔を作ってみる。


「……暗い、な」


 ランプを灯し、昨日のうちに外の井戸から汲んでおけに入れといた水で、何時ものように顔を洗う。


 冷たい水にまだ若干寝ぼけていた頭がようやく覚める。


 本能的に睡眠を主張する頭を、バットで殴りつけてねじ伏せるような冒涜的ぼうとくてきな行為だ。


 人間が本能を捨ててまで得た社会的行動は、果たして本当に進化と呼べるものなのだろうか……


 なんて馬鹿なことを考えながらリビングへと向かう。リビングでは母親が作り終えた朝ご飯をテーブルに並べていた。


 僕と同じで今から仕事に行くのだろう。母親は仕事着を着ていた。


 それにしても、もう少し外見というものを気にして欲しいところだ。


 伸ばしっぱなしの黒髪はとくにくしを通した様子はなく、いつもすっぴんで、疲れた顔を取りつくろうともしない。


 そんなんだから僕は昔の友達にばったり会ったりすると「お前の母ちゃん幽霊ゆうれいババァ!」とバカにされるんだ。


 そういった母親への想いを呑み込み、僕は黙ったままテーブルに座った。


 並べ慣れた料理達、灰色の川魚や灰色の野菜をかき込む。すると母親が話しかけてきた。


「どう、おいしい?」


「……うん」


 淡白にそう返事すると、母親はまた黙って自分のご飯を食べ始めた。


 そこからはお互い無言で、ただ食器と食器のぶつかる音だけが静かで薄暗い部屋に響く。


 ホントは味なんてあまり気にしてない。というかわからない。


 ある時から日に日に食べ物の味が薄くなっていって、最近ではもうほとんど味が分からなくなってしまった。


 食べ終わった皿を片付け、弁当をかばんに入れる。母親はまだ黙々とご飯を食べていた。僕はそんな母親を軽く一瞥いちべつしてから家を出た。


 外はまだ一段と肌寒く、早朝のんだ空気が肺に満ちる。


 全身を巡り、頭がえていく。辺りは薄明るくなってきていた。


「こほっこほっ」


 最近疲れからかせきが出てきたな……


 今日は雲一つない灰色の空。気持ちが悪いくらいの快晴だ。


 ――この世界はにごっている。


 街も人も川も空も。


 全ての風景を綺麗な絵の具に灰色を混ぜて描いたように、その全てがひどく濁っている。


 原因は分からない。


 なぜこうなったのか、なぜこうなっているのか、全くの謎だ。

 

 僕はこの色が嫌いだ。


 汚れて、くすんで、濁っている。このみにくい世界が……嫌いだ。


 仕事に追われる毎日、疲れの取れない体、友達も恋人もいない。


 濁った世界。


 この世界に僕は必要なのだろうか。


 今日僕が生きているという事には何か意味があるのだろうか。


 なんのために生きていて、どこへ向かおうとしているのか。


 人は目的をもって生まれてくると昔の人はそう言ったけれど、僕にはそんなものは分からないよ。


 明日に希望なんて持てない。


 止まない雨、明けない夜がないというのなら一体いつ明けてくれるの?


 この地獄のような世界をどうして僕は生きているの?


 分からないよ……分からない……


 死ぬ気もなければ死ぬ勇気もない。


 ――


 それが僕、12歳のアニマ・シナスタジア。


「いってきます……」


 誰にも聞こえないような声でそうつぶやいた。


 ここ数年で、僕と母親の間にはほとんど会話が無くなっていた。


 理由は簡単、僕は母親のことが嫌いだからだ。


 どうしてこんな関係になってしまったのだろうか。


 一体いつから歯車は狂い始めてしまったのだろうか。


 長い通勤の暇を潰すように僕はそっと過去の記憶を辿った。






 4年前、僕と母親と父さんはとても仲のいい3人家族だった。


 父さんは探検家兼考古学者として有名で、数々の発見をしてきたそうだ。


 当時8歳だった僕はあまりその凄さは分かってはいなかったけど、それでも父さんは、丸太のように大きな腕とふさふさで立派な尻尾しっぽを持った、大きくて力持ちで優しくてカッコいい、まさに僕にとってのあこがれの英雄だった。


 


 その当時は母親もいつもニコニコとしていて、多少ドジでおっとりとしたところもあったけど、明るく優しく町でも有名な美人さんだった。


 朝から近所の友達と集まって1日中駆け回って遊んで、夕方になると大好きな両親の待つ家へと帰る。


 尻尾が無い事をからかわれることもあったけど楽しい毎日だった。本当に楽しかった。


 ある日父さんが仕事で旅に出ることになった。


 なんでも海を挟んだ向こう側にある大陸に新たな遺跡が発見されたので、その調査に向かうらしい。


 危険な旅になることは分かっていたけれど、「大丈夫。俺は死なない。必ずこの家に帰ってくる」と僕たちに約束し、調査団とともに旅立ったのだった。


「歴史をひっくり返すような新たな発見を必ず見つけて帰ってくる。きっとお土産にとんでもないおもちゃも持ってきてやる。


 男同士の約束。そのカッコいい響きににんまりとしながら、父さんの帰りを楽しみに待った。


 楽しみに、楽しみに、毎日母親に「いつかえってくるの?」と聞いては母親を困らせた。


 母親はその度に「どんなに長くても2か月以内には帰ってくるわよ」と微笑みながら言うのだった。


 「いつかえってくるの?」が60回を超えたころ、母親の様子が変わりだした。


 「遅いわね。何かあったのかも、心配だわ……」と家中をウロチョロと歩き回り、落ち着かない様子だった。


「大丈夫!父さんは必ず帰ってくるよ、約束したでしょ?」


 と言うと、


「そうね、心配のし過ぎね。きっと仕事終わりにお腹がすいてお店に入ったらあまりに美味し過ぎてうっかり帰り道を忘れてるんだわ。ほら、お父さん食いしん坊だから食べ物のことで頭いっぱいになっちゃってるのよ。食べ飽きた頃にひょっこり思い出して帰ってくるわ」


 と面白おかしく言った。


 それがあまりに面白くて母親と二人、顔を突き合わして笑ったのを覚えている。


 僕は毎日待った。


 待って、待って、待ち続けて、待ち遠しくて、待ち望んで、待ちあぐねて、待ち焦がれて、待ちわびて……やがて、待ちなれた頃…………


 母親はもう、おかしくなっていた。


 母親は急に働きに出るようになった。何かしてないと落ち着かなかったのかもしれない。


 近所のおばさんたちは、父さんはとっくに死んでるだの、どこかで別の女と暮らしてるだの噂していた。


 そういうのもあってか、もともと家事もたまに失敗するようなドジだった母親は、ただひたすらに仕事に明け暮れるようになっていった。


 そして僕も働きに出るように言われた。友達と遊びたかったし、何しろまだ8歳だった僕は当然断ろうとした。


 だが、母親はヒステリックに騒ぎ、わめき散らし、無理矢理僕を働きに出したのだ。


 月の収入のノルマが決められて、達成できなければまたわめき散らかされた。


 子供を雇ってくれるところなんてたかが知れてる。職場では子供であるがゆえに舐められることもしばしば。


 報酬は大人の半分以下。残業代やボーナスなどはもらえず、もらえたとしてもすずめの涙ほど。


 行きついた昼の土木仕事では子供の体故に肉体的にとてもキツく、毎日筋肉痛だ。汗水たらして頑張っても報酬はほとんどピンハネされる。


 夕方からの居酒屋では、洗剤で指が荒れ、ひび割れるまで皿洗いをする。


 家に帰ってもすぐさまベッドに横たわり、3~4時間寝たら疲れの取れぬうちに次の仕事の準備を始める。家はほぼ寝るだけの場所と化して……


 そんな生活が4年続いた。


 当然友達と遊ぶ時間はなく、以前の友達とは疎遠そえんになってしまった。


 なぜそんなに金が必要なのかはわからない。うちは庭もついてるそこそこ立派な家だ。


 父さんはそれなりに稼いでいたはずだ。それに今は質素な暮らしをしている。


 それでもお金が必要なんて訳が分からない。近所のおばさんたちが言うように新しい男でもできたか。


 ……にしては外見に気を使わなすぎか。きっと母親がどこかでギャンブルでもしてってきたんだろう。


 とにかく、僕の母親は、狂っている。


 壊れている。


 壊れてしまっているのに、毎日ご飯だけはしっかりと作ってくれる。


 美味しいかと聞いてくる。


 狂っていて、壊れていて、なのに憎めなくて、恨めなくて、どうしようもなく理不尽だ。


 …………だから、嫌いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る