第12話 PETITION
一晩経ち、覚悟は決まり、用意も済ませた。後は了承を得るだけだった。
身支度を整えて帽子屋さんの所へ向かう。
朝の時間帯、三人はよく談話室にいる。物置にしか見えない通路を進み、扉をノックする。
暫くして内側からノックを返される。入室を許可する合図だった。
「失礼します」
やはり、三人が揃って部屋の中にいた。
扉をノックしたであろう三月ウサギは「はよ……」と気だるげに挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう。アリス君」
「飯まだだろ。なんならここで食うか?」
「ノアが用意してるので、遠慮しておきます」
三月ウサギは「ああ」と一つ頷くと、大して気にした素振りもなく、テーブルに置かれてある皿に目をやった。朝からボリューミーな肉料理だった。
「で、その朝食放ったらかしてどうした?」
「さては、せびりに来たな? 金か?」
「まさかだろ」
二人が笑うが、俺は困ったように「はい。頼み事があって」と返す。それに二人は驚いたように口を開いて固まった。
「マジ?」
「……ここから出ていこうと思います」
「ふぅん?」
帽子屋は片眉を上げると、愉快そうに喉奥で笑った。三月ウサギと眠りネズミは呆気にとられた顔を見せる。
「出ていくねぇ。俺は一向に構わないが、お前自身はどうする」
帽子屋は紅茶を口に含む。ゆったりとした動きだ。
「記憶はない。頼る場所もない。衣食住はどうする。そもそも何のために出て行く気だ」
「……記憶を取り戻すために」
「宛てはあるのか」
「白ウサギを、っ!」
言葉が終わらない内に胸元を掴まれる。
瞳孔の開いた目で帽子屋が俺を睨んだ。殺される。瞬時にそう思った。恐怖で息が上手くできない。
「……白ウサギ?」
ガシャン!
帽子屋は持っていたティーカップを投げつけた。俺のすぐ横を通り過ぎて、派手な音を鳴らしてカップが割れる。
怒った帽子屋は何度か見たが、手を出すほど怒った帽子屋は見た事がなかった。恐怖で歯が鳴る。
「記憶を取り戻すために白ウサギが必要なのか? なぜだ? お前と白ウサギは親しいのか? お前は白ウサギの居場所を知っているのか? なぜ黙っていた? ――お前はどちら側だアリス」
「やめろ帽子屋!」
「うるせぇお前じゃねぇ! 俺はアリスに尋ねているんだ! 女王側の者じゃねぇのか! 答えろアリス!」
引き剥がそうとする三月ウサギを振り払って帽子屋が怒鳴る。その勢いに肩が震える。舌がもつれて上手く話せない。
「あ、俺、俺は……」
「……答えられねぇのか。可哀想になぁ」
帽子屋は一転して優しい声を出した。普段よりも甘ったるい、幼子を慰めるような声だ。
だがどうしてだろう。その声でより温度が消えていく。嫌な予感に心臓が縮み上がる。
「答えられないなら仕方ないよなぁ。おさらばだ」
帽子屋が、そっと自分の被っている帽子を脱ぐ。その帽子は手の平の上で徐々に大きくなっていく。
帽子の中へ吸われるように、風が吹く。背を押される。俺の足は一歩一歩帽子へ近づく。
「あ、待って、待ってください!」
「俺は優しい男だからな。ここから遠い北の国で勘弁してやる。運が良ければ助かるさ」
この人、本気で俺を飛ばす気か!?
愕然としながら、帽子屋を見る。
興味を失った目で帽子屋は俺から視線を外し、紅茶に手を伸ばした。
「やめろ帽子屋」
静止する声が響く。
ピタリと帽子は吸い込むのを止めた。
見ると、眠りネズミが帽子屋の喉にナイフを当てていた。
「気狂いは名前だけにしておきなよ」
「……眠りネズミは大人しくティーポットに入っていろ」
「冗談もつまらなくなったね。短気なのは君の悪い癖だ」
眠りネズミは躊躇なく、別のナイフで帽子屋の手を刺した。
帽子屋が痛みに呻くも、眠りネズミの表情は変わらず、ナイフを喉に当て続けている。
「ぐっ……」
「ボクは二度は言わない主義だが……耳も悪くなったようだからもう一度だけ」
眠りネズミは地を這うような低い声で告げる。
「ふざけた行為をやめろと言っている。帽子を仕舞え」
暫く、二人が睨み合った。
帽子屋は何かを仕掛けようとしていたし、眠りネズミも反撃する体制を整えていた。
そして、帽子屋が溜息を吐いたと同時に、俺を吸い込もうとしていた帽子は元の大きさに縮まった。
「やってられるか。興醒めだ」
「分かってくれて嬉しいよぉ」
眠りネズミはパッと表情を変えてナイフを仕舞った。帽子屋は苦々しい面持ちで仕舞う様子を見つめている。
「アリスが女王側だったらてめぇが始末しろよ」
「帽子屋はそこが馬鹿だよねぇ。こんなに可愛い子がスパイみたいな真似するわけないでしょ?」
「もっとマトモな理由はねぇのか」
既に普段通りに振る舞う二人に俺が着いていけない。
眠りネズミが「怖かったねぇ」と言いながら俺を撫でる。
ふにゃふにゃした柔らかい笑みを浮かべているが、先程までの真顔を見るとその笑顔ですらぞっとした。
眠りネズミさんが一番怖い。
帽子屋は手の甲に突き刺さったナイフを引き抜きながら「元ヤンめ」と呟く。
三月ウサギは生ぬるい笑みを浮かべて「皆やべぇ奴ばっかりだから。気をつけろ」と遅すぎる忠告をした。
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