第11話 MEMORY
三人の屋敷の近くの森に到着すると、ゆっくり下ろされる。呆然とチェシャ猫の顔を見る。
最後に見たときと全く同じ服装で、やはり顔は口元しか見えない。
「……誘拐だ!!」
「許可はとったヨ」
「俺の意思は!?」
「話がしたいって言ったデショ」
誰もこんな心臓に悪い方法で連れ出してくれとは言ってない!
チェシャ猫はノアを見つけると「ああ、召喚術」と呟く。チェシャ猫も召喚術の存在は知っているようだった。
「キミが寝てる時に消えてごめんネ。でもボクが長居すると彼らの隠れ家も見つかるカラ、仕方なかったんだヨネ」
「それは、いいけど……」
「三ヶ月間。ボクが死にかけた数は十回。やっぱりキミは連れていけないって思ったカラ、ここに来た」
チェシャ猫はべろりと服を捲って腹の傷を見せる。
真っ白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。よく見るとガーゼの当てられている範囲が広い。大きな怪我のようだった。
「痛そ……」
「ちょー痛いヨ」
「ひぇ」
目を閉じて顔を背ける。痛々しいのは駄目だ。心做しか自分の腹も痛んできたような気がする。そっと腹を押える。完全に気の所為だった。
「アハ、駄目なんダ、こういうの。アリスは可愛いネ。そのまま慣れないで育つんだヨ」
「もう育たねぇし……つか、俺を連れてけないからここに来たって何?」
チェシャ猫は服を戻して口を開く。
「記憶について、ちょっとネ」
「……教えてくれるのか?」
尋ねると、チェシャ猫は少し気の毒そうに首を横に振った。落胆はしなかった。ただ、そうか、と納得するだけだ。なんとなく、教えてくれないだろうとは予想していた。
「キミが忘れようとしたなら、ボクは教えてあげられない。自ずと思い出すまでボクは何も言えないヨ」
「そうか。……そうか」
「ただ、思い出す手がかりを教えてあげる」
手がかり?
俺はいつの間にか俯いていた顔を上げる。この世界に手がかりなんてあるのだろうか。
チェシャ猫は少し屈んで視線を合わせる。揺れる髪の毛の隙間から、緑色の瞳と目が合った。
「白ウサギを探して」
子供に言い聞かせるような優しい声だ。
「彼女は君の半身ダ。白ウサギを追いかければ、きっと、キミは全てを思い出してしまう」
「半身? 白ウサギと俺は知り合いなのか?」
「……言ったデショ? 前のキミについては話せない」
そこまで教えておいて、それは無いだろう。
非難するように睨むと、チェシャ猫は仕方なさそうに肩を竦める。
「だって仕方ないじゃないカ。忘れたいと願ったのに、思い出させたら、前のアリスが可哀想ダロ?」
「……前の俺は、忘れたいと思ったのか?」
「きっとネ」
そうなのだろうか。俺は違和感を覚える。嫌なことがあったとして、チェシャ猫のことも何もかも忘れてしまいたいと思うだろうか。
俺の中で前の俺とチェシャ猫が知り合いであることは確定していた。俺ならば忘れたくないと思う。けれど、前の俺と今の俺は違うのだろう。
チェシャ猫は少し屈んでノアに目線を合わせた。
「キミがアリスの従者?」
「はい。チェシャ猫様でよろしいでしょうか」
「様はいらないヨ。ボクは味方にはなりえない」
「それは、どういうことでしょうか」
「……いつか話すヨ」
チェシャ猫はふっと笑うとノアの頭をそっと撫でる。小さく「アリスをよろしく」と呟いたのが俺の耳にも届いた。
「トランプに会えば白ウサギの行方は分かる。女王サマには気をつけるんだヨ。彼女は住人の罪を裁く役割があるからネ」
「俺にも罪があるのか」
「取るに足らないものだヨ」
前の俺は何をしたんだろう。俺の考えを見透かすようにチェシャ猫がまた口を開く。
「キミが後悔しているだけの、つまらない罪だ」
もっと前の俺について話してほしいのに、チェシャ猫はその話題になると俺を煙に巻く。
曖昧な答えが聞きたいわけではない。具体的な答えが欲しい。それなのに、チェシャ猫はやはり俺の罪については何も言わない。
「また会おう、アリス」
また衝撃を感じる。チェシャ猫が俺を担いだようだった。
一瞬にも感じる素早さで、俺は帽子屋さんの所へ戻された。辺りを見回しても、チェシャ猫の姿は見えない。
「チェシャ猫は?」
「あれぇ? もういなくなっちゃったのぉ?」
「せいせいする」
「全くだ。紅茶が美味いままで最高だ」
俺はぼんやりと森の方向を見る。ノアが「主様?」と呼びかけるのが分かった。返事がしたいのに、声が喉に張り付いて出て行かない。
罪ってなんだ。チェシャ猫は誰なんだ。前の俺ってなんだ。俺は何を忘れているんだ。
ガンガンと頭が痛い。喉を掻き毟りたくなる不快感があった。俺はこの燻りを晴らす方法を知っている。
――白ウサギを探して。
俺の記憶はそこにある。
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