第2話 GENUINE


「おやまぁ、泣いているのカナ?」


 耳元でひょうきんな声が聞こえた。ところどころカタコトで、妙な口調だった。


 俺は動く気にならなくて、俯いたまま男の声を無視する。

 早くどこかへ行ってくれ。そう願った。


「可哀想な新人さんダ! ボクが導いてあげようカ?」


 男は愉快そうに笑う。さながら幼児がおもちゃを見つけてはしゃぐようだった。

 ぐるりと男が俺の周りを回る。


「ボクはチェシャ猫。お客サマを御案内するのがオシゴト。キミはだぁれ? 名前を教えておくれヨ」

「……分からないんだ」

「名前が無い子カナ?」

「分からない……何も覚えてないんだ……」

「覚えていない子? それは珍しいネ!」


 顔を上げる。細く痩せた男がいた。チェシャ猫は俺に顔を寄せると、にやにやと笑った。


 チェシャ猫の風貌は怪しかった。

 フードを目元まで深く被っていて、笑う三日月のような歯と少しだけ出た金の髪しか見せない。

 黒いコートは暗闇に溶け込み、ぼんやりと顔だけを浮き出していた。


「アレ?」


 かくり、首を傾けチェシャ猫が呟く。


「他人の空似? 記憶をなくした本物? それともボクを騙す偽物?」

「……さぁ、知らねぇけど……」


 チェシャ猫はにこにこと笑いながら、俺の頬に手を当てた。ぞっとするほど冷たい手だった。

 ギザギザ鮫のように鋭い歯に、一瞬自分が食べられる想像をする。


「偽物だったらどうしよっか? 仮面でも被ってるのカナ? なら生皮ごと剥がしちゃうのも面白いよネ?」


 全然面白くない!


 顔を引こうとするも、当てられた手の力強さにそれも適わない。

 なんだこいつ、頭のネジぶっとんでんのか?

 チェシャ猫はにこにこと笑うくせに、物騒なことばかりを話す。


「ねぇ、キミは偽物? 白ウサギの差し金?」


 白ウサギ? ウサギがなんだってんだ。


 訳も分からない問いかけに当惑する。

 チェシャ猫は緩慢な動きで俺の首に手を伸ばす。ひたり。冷たい指が首に触れ、そのまま締め上げられる。


「答えないと続けるヨ」


 いち、にぃ。ゆっくりと数を数えられる。

 痩せ細ってるくせに、その腕に込められた力は強い。呼吸ができない。苦しい。ガリガリとチェシャ猫の手を引っ掻く。

 さぁん、よぉん、ごぉ。涼しい顔でカウントは進む。


「数えるのも飽きるなァ。早く答えてヨ」

「……ぁ、うぁ……」

「でもボク、本物だったら泣いちゃうなァ〜。キミはどう思う?」

「…………」

「アハ、苦しそうだネ!」


 目が回る。チカチカと星が瞬く。白くなっていく視界にチェシャ猫の顔がぼやけていく。


「ダメダメ、まだ寝ないでヨ。これからだから。ホラ、目を開けて?」


 首を締めている片方の手を外される。その手が俺の頬を軽く叩く。パチ、パチン。緩く目を瞬かせると「うんうん」とチェシャ猫は頷いた。


「ここまでしても、何も言わない、何もしない。白ウサギの奴にしては愚鈍な子を寄越してるネ? じゃあ、本物カナ? そうだとしたら……」


 チェシャ猫が拳を振り上げる。


 ――あ、殴られる。


 俺は察した。体は勿論動かなかった。首を絞められていた手はいつの間にか外されていた。


 ――ガツッ。


 体が浮く。骨の打ち鳴る鈍い音が響く。吹っ飛んだ体は受け身も取れずに地面に転がる。


「なぜこちらへ来た」

「ぁ、こち、ら?」


 じんじんと熱を帯びる唇を動かす。ぬるりとした感触に、口の中が切れていることに気がつく。


 チェシャ猫はどうやら怒っているようだった。

 訳が分からずチェシャ猫を見上げる。チェシャ猫は表情の抜け落ちた顔を晒していたが、またゆるりと口角を持ち上げて笑ってみせた。


「……アハ。ごめぇん。泣かないでヨ」


 泣く?

 自分の目に手を当てると、確かに俺は泣いているようだった。


 そりゃあな、痛いしな。俺、多分痛いの嫌いだしな。泣くよな。見知らぬ奴に殴られて泣くのはダサいけど、仕方ないよな。うん、仕方ない。


 自分に言い訳をしてぐしぐしと顔を拭う。袖には鼻血も付いていて気分が下がる。「うげぇ」とげんなりした声が出た。


「やだなぁ〜今のボク、超絶怖いヤバイ奴じゃん。ボクってば親切な優しいお兄さんで通ってるのにナァ」

「嘘つけ、クソ野郎」

「うーんこの口の悪さ。本物っぽいなァ〜」


 チェシャ猫は先程の様子から一転して、まるで本当に優しいお兄さんかのように俺を慰めた。


「ごめんネ。何も覚えてないんだっけ?」

「……あぁ」

「そっかァ。……うん。そっか」


 チェシャ猫はまるで俺を知っているかのように俺に接する。きっと、そうなのだろう。俺は目の前の男と知り合いだったことを察する。


 チェシャ猫の冷たい手が、殴られた頬に触れた。ひんやりとしていて気持ちがいい。


「どうしてこっちに来たんだ……」


 相変わらずチェシャ猫の顔はフードに隠れていて見えない。それでも、チェシャ猫が泣いてるような気がして手を伸ばす。


「……泣くなよ」

「……泣いてないヨ。泣いてるのはキミでしょ」

「俺も泣いてない」

「強がり」


 くすくすと笑う声が聞こえた。本当に泣いてないのかもしれなかった。


 もし俺がこいつを知っていたとして。こいつが俺に忘れられているとして。それはとても可哀想なことだと思った。

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