さよならワンダーランド

nero

Hello! Wonderland.

第1話 RESET

 身を竦ませるような冷たい風が頬を撫ぜる。きっと泣いていた。

 ガチガチと打ち鳴らされる歯を噛み締めて、情けない悲鳴を洩らさないように唇をきつく閉じる。

 冬の夜のように寒いのに、頭の中は沸騰しているように熱くて、自分でも訳が分からなかった。


 寒くて、熱くて、悲しくて、恐くて、痛くて、辛くて――どうにかなりそうだ。


 ひゅっと息をし損ねた喉が変な音を零す。それが限界だった。


「嫌だ、ぁ、恐い……恐いんだよ!! 俺だって嫌だ!! 恐い!! 嫌だ!!」


 とりとめのない言葉を叫ぶ。ただひたすら恐くて、逃げ出したかった。

 両手が自由に使えていたらきっと頭を掻き毟っていた。だがその手も恐怖に震えて上手く動かない。


 ――死にたくない。


 俺は落ちて、落ちて、落ちて、落ちていた。


 あの場所から地面までどれほどの距離だっただろう。永遠にも感じる一瞬を味わっている。走馬灯は既に終わりを告げた。


 体はどんどん落ちていく。風が通り過ぎる。みるみるうちに地面が近づく。

 俺は恐ろしかった。

 早く地面に着いてくれ。この恐怖を終わらせてくれ。まだ地面に着いてくれるな。まだこの命を終わらせてくれるな。


「……死にたくない……!」


 死ぬのが恐くて恐くて恐くて恐くて、それ以上にあいつらの名前が忘れられていくのが恐かった。


 もう俺しか覚えている人はいないのに。俺はもう死んでしまうのに。

 もうすぐあいつらの名前は消える。

 確かな予感だ。


 涙が空に吸われていく。シャツがはためく。

 逆さまになったまま、俺はみっともなくまだ死にたくないのだと喚いた。


 そ し て 地 面 が


「あ」



 次の瞬間、視界は反転する。





 俺は手を伸ばしていた。


 息苦しさに藻掻く。

 目を開けると、俺は


 呆けて少し開いた唇の隙間から、容赦なく酸素は出ていく。泡が弾ける。

 また息苦しくなって水を掻き分けた。


 どっちが上だ?


 水を蹴る。体がひっくり返る。

 光がどこから差し込んでいるのかなんて、冷静に考えられっこない。


 後はもう、めちゃくちゃだった。

 ヤケになって手足をバタバタと忙しなく動かした。


 水の中から抜け出せたのは、ただの幸運だった。


「……っ、え゙お゙っ、っは、っあぁ、あ……」


 べたりと張り付く髪を掻き上げる。

 水はさほど飲み込んでいないようだったが、暫く咳は止まらない。

 全力疾走をしたように心臓の音が煩かった。


「……なんで、溺れてんだ、俺……」


 俺は確かに"落ちていた"はずなのに。


 どうして水の中にいるのだろう。そもそもここはどこなのだろう。俺は落ちていたはずなのに。


「――?」


 自分の声に驚いて、思わず口を塞ぐ。口を押さえつける手が震えた。


 あれ? そもそも俺は何をしていた?

 ――思い出せない。


 落ちていた。落ちていたはずなのだ。落ちていたはずなのに、俺は何も覚えていない。

 どこから落ちた? どうして落ちた? なぜ俺はここにいる? こんな、人気のない森の中に。


 忘れている。


 その異様な事実に血の気が引く。

 慌てて俺は自問自答を始めた。


 ここはどこだ。――見覚えのない森の中だ。行ったことはない。

 本当に行ったことはないのか? ――確証はない。

 なぜ確証がない? ――俺の記憶が殆ど消えている。

 親や家族のことは覚えているか。――覚えてない。名前も顔も分からない。

 俺の家は。――知らない。

 俺の趣味は。――覚えていない。

 俺は誰だ。――分からない。


 答えのない自問自答だ。疑問ばかりが湧き出て、答えが一向に姿を見せない。


「俺……俺、俺は……! ……俺は……?」


 蹲る。寒い。寒くて寒くて仕方ない。凍えそうなほどの寒気だ。凍りつくような恐怖だ。ガタガタ震える体を抑える術を俺は知らない。何も知らない。


 俺の記憶といえば、理由も場所も分からないが、落ちていた、という事だけだ。


 それ以外のことは、全て、忘れていた。

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