♬5 沙羅沢池の畔で
そういうわけで、静かで、できれば開けた場所で休憩したくて、この沙羅沢池の周りをぐるりと散歩したのだ。で、今、此処に居る。
三本松の下には三つのベンチ。その真ん中の左端に腰掛けてから、どれくらい時間が経っただろうか。日はまだ高い。三時間くらい経ったような、まだ十分程のような、至極曖昧な感覚の中を漂っている。
「此処は、一体……何処なんだろう?」
自分が奈良に来たことがあったのかを確かめたかったが、そもそも奈良とはこのような場所だったのだろうか。
ザブザブと音がして、沙羅沢池から上がってきた人がふう〜っと大きく息を吐き、水を滴らせながら左隣のベンチに腰掛けた。
もう……何を見ても、驚かない気がする。
その人はどうやら完全防水らしいバックパックを背から下ろし、無造作に足元へ転がした。横目でそっと観察したところ、今度こそ亀の甲羅のように視えた。まるで、〈亀〉が陸に上がって甲羅干しをしているような有様だ。甲羅、脱いじゃってるけど……
「あ〜、ようやく奈良に着いたか。だが、亀仙人様の居る天河までの道のりは、まだまだ長いなあ」
ぼやくような声が聞こえてくる。
「バックパックを背負って、歩いて日本一周して来いだなんて、無茶振り修業もいいとこだと思ったけれど、やってみれば意外と、どうとでも生きていけるもんだなって思え……」
大きすぎる独り言が途切れ、どうやら寝落ちしたらしいと知る。私はと言うと、いつの間にか息を止めて様子を伺っていたようで、盛大に息を吸い込んだ。自動的に吐き出しもする。
と、そこで自分と同じベンチに誰かが腰掛けていることに気づいて、ドキリとした。右隣のベンチはがら空きなのに、だ。
「あ、ごめんね。ここが一番、良い角度だからさ」
心の声が届いたのか、不意に弁解の言葉が聞こえる。
いたって軽快な言葉の主の顔は、肩口までの真っ直ぐな榛色の髪に隠れてよく見えないものの、手元のスケッチブックがその言葉の意味を物語っていた。
そのカンヴァスには、池の向こう、松の樹に囲まれた五重塔が鉛筆だけで仕上げられている。『光福寺』の中でもひときわ目立つ建築物で、天を貫く避雷針のような〈相輪〉がクローズアップして描かれている。
ただ、この位置から人の目でそんなにも詳細まで観察できるだろうか、という程に細かく描き込まれているのだ。
え? どんな視力してるんだろ……
「さっき近くまで行って見てきたんだ。今日こそ、水煙の上に立ち上る竜を描こうと思ってさ。あの頂点の宝珠に向かって晴天に登る竜。考えたもんだね、塔の設計者も」
「ち、近く、って」
あんなに高いところにあるのに?
またしても心を読まれたかのような口ぶりに焦って返すと、その人は艷やかな髪を揺らして微笑み、こちらにスケッチブックを傾けて、「この豪奢な飾りが〈水煙〉で、先端の珠が〈宝珠〉、その下の珠が〈竜舎〉だよ」と丁寧に説明してくれた。
なんとなく声のトーンが心地よくて静かに聞き入っていると、その人は嬉しそうに、整った顔立ちをいたずらっぽく歪ませた。コチラに向けられた笑みの中の瞳は、どこまでも澄んだ蒼色で思わず魅入ってしまう。
爽快な空を想わせる色だ。
「あ、あの……日本語、上手ですね」
吸い込まれそうなほど、じっと見つめていたことを取り繕うように口をついて出た言葉は、酷くツマラナイものだった。キョトンとしたその人の顔を見て、激しく後悔する。
「僕はこの界隈で治療院を営んでいるからね。それに言葉を覚えるのは得意なんだ。風に乗って伝わってくる音を聞き慣れているから。君こそ、あまり見かけない顔だね」
クスクスと笑いながらも、先程までと変わらぬ落ち着いた声音で話が続いた。旅の途中で住み込みバイトをすることになったのだと伝えると、その人は成程ナルホドとしみじみと頷いていた。
「へえ、リュカという名なんだね。その〈私〉というのは君自身のことを指してるのかな?」
「はい、もちろん。一番一般的で、どこで使っても問題なく、無難というか……」
〈私〉と自称するのは、もはや習慣として身についている。性別の隔てなく、使うことができる一人称だ。
「一般的、か。このあたりじゃ、まず聞かないけどね」
「え? そう、ですか……」
「あ、別に、変だとか言ってるわけじゃないよ。気にしないで」
僕はこういう者だから、と言って渡された名刺の中央には〈フルクサス〉と書かれている。左上には店のロゴらしい図柄。満月の端に、三日月の影のように寄り添う竜が描かれており、その横には治療院の名称なのか、『竜の寝床』と記されている。
名刺は至ってシンプルで、それ以外には何も……
「あの、何の治療をされるんです? それに治療院の場所とかは」
「もし君に僕の名が刺さったのなら、必要な時に自ずと僕の元に導かれるはずだ」
「え、それって、どういう――」
緩やかな風が吹いて、手元の名刺が空気中に溶けるように砕け散っていった。あっと息を呑む間にひときわ強い風が吹き、目を閉じて腕で顔を覆う。
「あの、名刺を風に持ってかれちゃったみたいで、ごめんなさ――」
風が止むと同時に、ずれた眼鏡を直してその人の方へ向き直った。が、そこには誰も居らず、耳の奥、鼓膜を直接震わすような感覚の後、音無き声が自分に何か語りかけているのだと気づいた。
――僕が人の姿をするのは、風が凪いでいる時だけだ。
そうなんだ、と思うと同時に、目の前が暗転した。
もうこれ以上、不思議な何かを受け入れる余裕が無いんだろう、と遠のく意識の中で、他人事のように冷静に考える自分が確かに居るのを感じた。
***
気がつくと、陽が傾いていた。
四方を山に囲まれるこの土地は、日が暮れるのも早い。陽が早々に山の向こうに顔を隠してしまうからだ。
涼しい空気の中で、身体の右側が少し温かい。
「あ、起きたのかな?」
聞き覚えのある声がして、弾むように身体を直立した。
「そんなに慌てなくても。中々帰ってこないから見に来てみれば、こんなところで寝ちゃって。すっかりこの街に馴染んだみたいだね」
どうやら露樹の肩に身体を預けて居眠りをしていたらしい。何処まで夢だったのかが曖昧で、酷くぼんやりした頭も、まだ身体の右側に残る温もりに気づいてしまってからは、妙に覚醒しきっていた。
「帰ろう」
そう言って、すくっと立ち上がる露樹に倣う。恐らく朱くなっているであろう顔は、奈良の都を染め上げようと西方から舞い降りる
喉の乾きも、よもぎ餅の餡の甘みも、〈フルクサス〉という音も、実感が伴った記憶だ。あれは、夢ではなかったのだろうか。自分が今此処に居ると感じている場こそ、現実と言えるのだろうけれど、噂に聞く奈良とはどうにも違うような、でもこれが奈良だと言われてみれば、そうかもしれないような。
この日を境に、この存在自体が曖昧な街を『異都奈良』と呼ぶことにした。
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