Act.9

 病院のベッドで、僕は目覚めた。胸に分厚いガーゼと包帯。

 生き延びたんだ……と、かすみのかかった頭でぼんやりと思う。

「目が覚めたのね」

 声のしたほうに視線を移す。千都世が僕を見下ろしていた。

「貴方、薬が効きにくい体質なのね。貴方の右胸に入った銃弾を取り出す手術、大変だったそうよ」

 医師に感謝することね、と千都世は淡々と……努めてひららかに、言った。

「生還したばかりのところ悪いけど、“上”からの通達を伝えるわね」

「惟は……?」

 僕は尋ねた。なによりも先に、それが聞きたい。

「……別の病室で手当てを受けているわ。命に別状はないから、安心なさい」

 千都世の言葉に、僕は小さく息を吐く。良かった。

「……それで、通達って?」

 やっと僕は、本題に入る。

 千都世は軽く唇を噛みしめ、重く口をひらいた。

「昨日付けで……貴方の《失格ミス・キャスト》が決定されたわ」

「…………そう」

「理由も聞く?」

「いいよ。察しはついてる。《調整人コーディネータ》なのに、《護衛人ボディガード》を庇ったから、だろう」

「最大の理由は、そうね」

 千都世は小さく息をついた。

「貴方は、今後……《疑似餌ルア》の役についてもらうことになるわ」

「……《疑似餌ルア》……?」

「私たちの《標的ターゲット》をおびき出す餌の役割よ」

 狙撃されたということは、僕の顔は“敵”に知られているということ。僕を泳がせることで、喰いついた《標的ターゲット》を仕留めるのだ。

「そんな《キャスト》、初めて聞いた」

「当然よ。昨日、新設された《キャスト》だもの」

 千都世の返答に、僕は思わず苦笑する。

「それで、僕は何をすればいいわけ?」

「貴方には、これから或る施術を受けてもらう。それだけよ」

「え……?」

「貴方の記憶を封じるの。貴方は官庁街のテロ事件に巻き込まれた一般市民として、この病院を退院することになるわ」

「記憶を……? そんなこと、できるわけ……?」

「まだ試験的なものだけれどね。貴方は被験者のひとりっていうわけ」

 はっ、と僕は笑って息を吐いた。ていのいい御払い箱というわけか。

 それでも、口封じに殺されるよりはましだろう。

 ただ……

「……もう、惟には会えないんだね」

 僕は呟くように言った。千都世は無言で、それを肯定する。

「千都世」

 ベッド脇に設けられた椅子の背に掛けられている僕のジャケットを視線で示し、僕は千都世に頼んだ。

「ジャケットのポケットに入っているものを、預かっていてくれないか」

 僕の言葉に、千都世は不思議そうな顔をしながらも、ポケットの中のものを取り出す。僕の血で汚れなくて良かった。ローズピンクのシーグラス。

「いつか“僕”が戻ったら、返してほしい」

「……戻る気なの?」

 瞠目する千都世に、僕は努めて不敵に笑ってみせた。

「当然」


「這い上がってみせるよ。封じられた記憶の底から」



+ + +



 雨の雫が、街灯の光を抱いて、流星のように降り注ぐ。

「今の貴方には、二つの選択肢があるわ」

 千都世の声が、雨の音に掻き消えることなく凛と響く。

「ひとつは、平穏に翻訳や通訳の仕事をして、世界の日向で生きる道。そして、もうひとつは……《削除人デリータ》として、惟と世界の日陰で生きる道よ」

「惟と……?」

「私と……?」

 僕と惟が声を取り落とすのは同時だった。そんな僕たちを見比べて、千都世が微笑む。

「優誠・トキハの顔を知る“敵”は、芋蔓式に殲滅したわ。だから、貴方の《疑似餌ルア》の役は、予定通り、二十八日間の終わりとともに解かれることになる。そして、もし、貴方が……第九機関に復帰することを選択するなら、そのときは《削除人デリータ》として、惟と組んでもらうように、“上”に掛け合うつもりよ」

 どうする? と千都世は不敵に微笑んだ。その瞳をまっすぐに見返して、僕は千都世と同じ笑みを返す。

「僕の答えなんて、最初から決まってる」


「僕が上がった、生きる舞台は、ここなんだから」


 いちど目を伏せ、そして静かに、僕は惟へと向き直る。

 手を伸ばした。惟に向かって。

「惟は、どうする?」

 君は、この手を取ってくれるだろうか。

「……優誠……」

 惟が、ぎゅっと片手で拳をつくる。黒曜石の瞳が、水を湛えてきらきらと揺れた。

「私と組んだら……っ、二度と私を庇わないって約束して」


「私が、貴方を護るんだから……!」


 手が取られる。結んで、握って、繋がれる。

 小さな手だった。細い手だった。かつての僕と同じ手だった。

 けれど確かな強さをもって、僕の手を握り返してくれた手だった。


 血と薬莢の降り積もる世界の頂へ、僕たちは上がっていく。

 片手で誰かを殺しながら、もう片方の手は離さず繋いで。


 こんな世界とうそぶきながら、それでも生きると言える舞台で。


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