Act.7
ジャケットのポケットから、シーグラスを取り出し、キャビネットに収める。そこで初めて、今回の仕事も無事に終えられたという実感が湧く。故郷の海で拾った一片の硝子のかけら。組織に拾われて以来、仕事のときは、いつも身につけていた。忘れるなという、自戒のようなものだった。血と泥に
生い立ちを、
ここは地獄だと、言ったのは誰だったか。死にたいと
――君は、生きたい?
興味が湧いたんだ。観測手も付けずに、単独で依頼をこなす狙撃手の子ども。狭い世界だ。第九機関の中には、彼女に屠られた人間も少なからずいただろう。殺されてやる気はさらさらなかったけれど、相手をしてみたいと思った。ただの気まぐれだと思ってくれて構わない。
でも、
――ここで死なずに、生きられる場所なんてない。
驚いた。僕と全く同じことを言ったから。惟が、あまりにも僕だったから。
だから、選択させた。生きられる場所へ這い上がるための手を貸した。惟は、それを掴んだ。いつかの僕のように。
ただ、惟と僕で、決定的に違っていたことがあった。僕は心まで他者に委ねたりはしない。僕は、どこまでも僕だった。僕は僕のために生き、僕のために死ぬだろう。けれど惟は逆だ。他者のために生きてしまう。他者のために死んでしまう。惟が僕を見上げて微笑むさまを見て、僕は、そう直感した。それは日々を重ねるほどに、確信へと変わっていった。
――宝石。
惟の言葉に、胸中で、はっとした。なぜこれを拾ったのか。あの世界の底で、この硝子片が、至極、美しいものに見えたからだ。忘れかけていた。自戒と自負と自尊に埋もれて。
殺せと命令を受ける側だった僕が、今では命令する側になっている。そして、それを淡々とこなせている自分がいる。いつかトリガを引いていたひとさし指は、今では命令の象徴みたいだ。
殺すことは簡単なのに、殺させることは、こんなにも難しい……なんて言ったら、《
――そして、護ることは、ずっと。
僕は生き延びなければならない。僕の死は、惟の死を意味する。
《
――僕は、惟を生かせるだろうか。
僕が生き延びることで、惟を死なせないことができるだろうか。
「優誠」
暮れなずむ庭。
側溝を流れる水の底に、右の下羽を欠いたアオスジアゲハが沈んでいた。惟の白い腕が、そっと掬う。水の膜をまといきらめく、
「お墓を、つくらないと」
呟く声が雨とともに地面を打つ。僅かに切れた厚い雲。夕陽の最後のひとしずくが世界を貫く。薄闇の中、ばらばらと大粒の光を降らしながら。
「一緒につくろう」
寄り添う僕たちは、あるいは兄妹のように見えただろうか。
殺しつづける手を、護りつづける手を、結び合えないままに。
+ + +
しばらく小雨が続いていた穏やかな空は、今日の午後になって土砂降りに色を変えた。つんざく雷鳴こそなかったものの、窓硝子に打ちつける大粒の雫は風の強弱をそのまま反映して、寄せては引いていく波のようにノイズを奏でつづけている。
ミハヤさんと惟は、朝から“仕事”に出ていった。少し遅くなるかもしれないと惟は言っていた。
厚い雨雲に覆われて、世界は暗かった。時計を見なければ、時間の感覚が狂ってしまいそうなくらいに。
陽はもう落ちただろうか。今日の分の仕事を終えて、僕はペンを置いた。僕がこの
紅茶を淹れて一息つこうと、僕はキッチンへと下りていった。
しゅんしゅんと温かいケトルの音が雨の音を攪拌し、程良くノイズを和らげていく。睡魔を誘う、穏やかな湯気の音。
「ミハヤさん……?」
キッチンの窓の向こうに、庭園を抜けてこちらへ歩いてくる長身の影が見えた。雨の滴に輪郭は滲んでいたけれど、傘をさして歩調を速めたミハヤさんと、その後ろを少し遅れて、傘を差さずに駆けてくる惟の姿は確認できた。
酷い雨だ。早く中へ。そう思って僕は、玄関のドアをあけた。最初に飛び込んできたのは、惟の声だった。
「どうして、ですか……」
微かに震えた声だった。ミハヤさんはポーチの屋根の下で足を止めて振り返り、惟は雨の中、ポーチへと至る階段の下に立ちミハヤさんを見上げていた。黒衣の袖から覗く右腕には、薄暗い雨の色に染まる世界の中、目を射るようなコントラストで浮かび上がる包帯の白。
「私を、貴女の《
「そのままの意味よ」
佇むミハヤさんの背中からは、何の表情も読み取れなかった。ただ坦々と、静かだった。
「……《
惟の瞳が、キッとミハヤさんを睨みつける。閃くように、鮮烈な鋭さで。
「こんな傷、すぐに治ります。治せます。たとえ右腕が使えなくても、左腕があれば戦えます。たとえ貴女の銃にはなれなくても、私はまだ盾にはなれる。この体ひとつで、いくらでも、私は……っ」
拳をつくれない右手の代わりに、きつく、きつく、左手を握りしめて。
ずきり。脳裏で、何かが瞬いた気がした。僕の中で、何かが囁く。手を伸ばすように、笑うように。ドアをあけた僕に気づいた惟が、一瞬、立ち尽くす僕の瞳を捉える。激情を湛えた黒い瞳。色をなくした唇が、微かに、僕に微笑みかけた気がした。
「私は……」
惟の視線が、すっと僕から離れ、再びミハヤさんを見据える。はぁっと小さく息をつき、惟は言い放った。
「私は、まだ、《
――あ。
雷に、全身を貫かれたような心地がした。《
――《
駆け出していた。呼びとめる声を背に受けて。けれど足はさらに速めて。土砂降りの雨の中。いつかの坂の終わりまで。流れ落ちる水に足を取られかけるのも構わずに。駆けて、駆けて。
「優誠……っ!」
追ってくる。追いかけてくる。それでいい。惟。いつかと同じ、土砂降りの雨だ。懐かしい水の音。全身に受ける、身に馴染んだ雨の温度。
――僕の勝ちだ。
胸の中で、笑いが鎌首をもたげる。駆けながら、衝動のままに、僕は笑った。流れ落ちる水が交差する。坂の終わりに辿りついていた。
「……優誠……」
「久しぶりだね、惟」
ふふっと、うたうように僕は笑った。ゆるやかに振り向く。やっと戻れた。戻りたかった。ずっと。
「ただいま、僕の《
この瞬間を待っていた。いや、待つなんて生温い。つかみ取りにかかっていた。僕の賭け。僕の中の僕を、取り戻すために。
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